2012年 09月 15日
2つの言語 |
今年の春、多和田葉子さんの話を聞いたのがきっかけで、2つの(あるいは複数の)言語のあいだにあることを意識するようになった。
夏は、いわゆる生粋のフランス語話者でなく、フランス語以外の母語を持つ作家、あるいは何らかの事情で生まれた国を離れることになった作家にばかり目が向いた。
その繋がりでいろいろと検索していたら、面白いものを見つけた。
フランス語を勉強している人だったらもうお馴染みかもしれない。
TV5mondeという、外国語としてのフランス語の学習教材を提供しているサイト。
そのなかに「Double je」と題されて、フランス語以外の母語を持ちながらフランス語の世界で活躍している人達をとりあげたインタビュー動画集があった。
フランス語で書く、フランス語を話す、音楽と英語、音楽とイタリア語と4つのカテゴリーに分けられて数人ずつ紹介されている。どれも興味深い話だし、ジェーン・バーキンだのフランスの前大統領夫人だのまで出てくるという豪華さなのだけれど、個人的には「フランス語で書く」が断然面白かった。
作家というのは、なるほど言葉のプロフェッショナルなのだな、と思った。
言葉に対する意識の繊細さ鋭さが全然違う。
紹介されているのは4人。
ハイチ出身のダニー・ラフェリエール。
ロシア出身のアンドレイ・マキーヌ。
中国出身のシャン・サ。
スペイン出身のJorge Semprun(発音がわからないのでこのまま)。
(動画はリンク先の頁の右側「voir la séquence」をクリックすると見られます)
ダニー・ラフェリエールの本は、この夏何冊か読んだ。
今一番興味を引かれている作家でもある。
この人の話で面白いのは2点あって、1つ目は、彼が行く先々で支配的な言語と抑圧される側の言語に出会うという話。生まれ故郷のハイチでは、クレオールとフランス語。移り住んだケベックではフランス語と英語、その後住んだマイアミでは英語とスペイン語。どの場合も、抑圧された言語を応援しなければという動きに巻き込まれていること。
もう1つは、フランス語で英語の本を書くことができるということ。つまり、英文学が英文学であるのは英語で書かれているからではなく、英語文化を描いているからであると。この理屈に従うと、わたしはフランス語で日本文学を書くことができる。
アンドレイ・マキーヌは、異なる言語にであったとき初めて言葉や表現に対して問いを発せられるようになる,と話している。その話ももちろんすごく興味深く聞いたのだけれど、それを上回って印象に残ったのが、彼の話し方、声。これがロシア人の発声?ものすごく深く、声帯だけでなくて胸まで共鳴しているような声。ロシア人ってこういう声で言葉を紡いで、それがあのロシア文学を生んだのかぁなどと考えてしまった。なるほど彼の作品に通じる話であった。
3人目のシャン・サは、「碁を打つ女」を書いた作家。
中国日本と国籍の違いはあれど、アジア人として何か通じるものを感じる。
フランス語で書こうとした時、辞書で言葉を探して当てはめてもフランス語らしい文にならなかったという話。フランス語の単純過去と半過去の使い分けが難しいという話。それに関して中国語を例えに出して最後に言った言葉「dans la langue chinoise, il y en a pas de conjugaison, puisque chaque mot a une éternité(中国語には動詞の活用はありません。なぜならそれぞれの言葉に永遠性があるからです)」に、くらっと来た。
「いわにしみいる せみのこえ」の「しみいる」にも永遠性がある。
4人目のJorge Semprun。
彼は完全なバイリンガルだそうだ。書かれた言葉がフランス語であろうとスペイン語であろうと、頭の中に入る時には関係なくなっている、と言っている。記憶は言語を離れて刻まれるってことだろうか?
あまり汎用性のある(?)話題ではないのだけれど、自分の興味のど真ん中をついてくるインタビューだったもので、自分の記録として、そしてひょっとしたら他にも同じようなことを考えている人もいるかもしれないと思いつつ、書きとめておくことにする。
夏は、いわゆる生粋のフランス語話者でなく、フランス語以外の母語を持つ作家、あるいは何らかの事情で生まれた国を離れることになった作家にばかり目が向いた。
その繋がりでいろいろと検索していたら、面白いものを見つけた。
フランス語を勉強している人だったらもうお馴染みかもしれない。
TV5mondeという、外国語としてのフランス語の学習教材を提供しているサイト。
そのなかに「Double je」と題されて、フランス語以外の母語を持ちながらフランス語の世界で活躍している人達をとりあげたインタビュー動画集があった。
フランス語で書く、フランス語を話す、音楽と英語、音楽とイタリア語と4つのカテゴリーに分けられて数人ずつ紹介されている。どれも興味深い話だし、ジェーン・バーキンだのフランスの前大統領夫人だのまで出てくるという豪華さなのだけれど、個人的には「フランス語で書く」が断然面白かった。
作家というのは、なるほど言葉のプロフェッショナルなのだな、と思った。
言葉に対する意識の繊細さ鋭さが全然違う。
紹介されているのは4人。
ハイチ出身のダニー・ラフェリエール。
ロシア出身のアンドレイ・マキーヌ。
中国出身のシャン・サ。
スペイン出身のJorge Semprun(発音がわからないのでこのまま)。
(動画はリンク先の頁の右側「voir la séquence」をクリックすると見られます)
ダニー・ラフェリエールの本は、この夏何冊か読んだ。
今一番興味を引かれている作家でもある。
この人の話で面白いのは2点あって、1つ目は、彼が行く先々で支配的な言語と抑圧される側の言語に出会うという話。生まれ故郷のハイチでは、クレオールとフランス語。移り住んだケベックではフランス語と英語、その後住んだマイアミでは英語とスペイン語。どの場合も、抑圧された言語を応援しなければという動きに巻き込まれていること。
もう1つは、フランス語で英語の本を書くことができるということ。つまり、英文学が英文学であるのは英語で書かれているからではなく、英語文化を描いているからであると。この理屈に従うと、わたしはフランス語で日本文学を書くことができる。
アンドレイ・マキーヌは、異なる言語にであったとき初めて言葉や表現に対して問いを発せられるようになる,と話している。その話ももちろんすごく興味深く聞いたのだけれど、それを上回って印象に残ったのが、彼の話し方、声。これがロシア人の発声?ものすごく深く、声帯だけでなくて胸まで共鳴しているような声。ロシア人ってこういう声で言葉を紡いで、それがあのロシア文学を生んだのかぁなどと考えてしまった。なるほど彼の作品に通じる話であった。
3人目のシャン・サは、「碁を打つ女」を書いた作家。
中国日本と国籍の違いはあれど、アジア人として何か通じるものを感じる。
フランス語で書こうとした時、辞書で言葉を探して当てはめてもフランス語らしい文にならなかったという話。フランス語の単純過去と半過去の使い分けが難しいという話。それに関して中国語を例えに出して最後に言った言葉「dans la langue chinoise, il y en a pas de conjugaison, puisque chaque mot a une éternité(中国語には動詞の活用はありません。なぜならそれぞれの言葉に永遠性があるからです)」に、くらっと来た。
「いわにしみいる せみのこえ」の「しみいる」にも永遠性がある。
4人目のJorge Semprun。
彼は完全なバイリンガルだそうだ。書かれた言葉がフランス語であろうとスペイン語であろうと、頭の中に入る時には関係なくなっている、と言っている。記憶は言語を離れて刻まれるってことだろうか?
あまり汎用性のある(?)話題ではないのだけれど、自分の興味のど真ん中をついてくるインタビューだったもので、自分の記録として、そしてひょっとしたら他にも同じようなことを考えている人もいるかもしれないと思いつつ、書きとめておくことにする。
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by poirier_AAA
| 2012-09-15 20:45
| 言葉と文化のはざま
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Comments(4)