2013年 01月 17日
語学のあれやこれや |
今年はほんとに真面目に真剣にフランス語をやろう
と、目標を掲げたわけだけれど、
それですぐに勉強を始めるのではなくて、
まずは方法論から探ってみようとするのが、わたしの欠点なり。
これまで、いかに多くの目標が方法論検索のみで尻切れになったことか。
探していたのは、ボキャビルのやり方だ。
フランス語に限ると量は多くないけれど、
英語学習者は多いから、反復の仕方などで役に立つ情報が多かった。
でも、どうも何かが違う、と感じた。
ボキャビルの話を書いている人のほとんどが、
例えば英語で語彙レベル1万語に達しようとしている人でも、
その単語帳には、英単語と対訳の日本語が並んでいる。
日本語を経由して覚えるって、面倒くさくないのだろうかと思った。
道にりんごが1つ落ちている。
その事実は何語であろうと変わらない。
視覚的に得た情報を、まず日本語で認識してから外国語変換する?
感覚は言葉で認識しているんだろうか?
りんごを見る。
その時には、頭の中ではまだ言葉は生まれていなくて、
たまたま隣にいる相手が日本人だったら「りんご」と言うし、
フランス人だったら「une pomme」と言うだけだ。
頭の中には日本語回路とフランス語回路の2つがあって、
それぞれが感覚とダイレクトに結びついている。
りんごをみたとき、どちらの回路で処理するかによって出てくる言葉が変わる。
そして日本語回路とフランス語回路の間には橋が架かっていて、
お互いにこれとこれは対応してるよね〜と確認しながら交流している。
それが、新しいフランス語単語を日本語訳で覚えようとすると、
フランス語回路が日本語回路に従属してしまうような気がするのだ。
りんごを見た時に、日本語回路経由でフランス語回路に送られる感じ。
視覚とフランス語がダイレクトに結びついていないので、まどろっこしい。
でも、こういうことを言い始めると、日本語で方法論を探すことはできなくなる。
日本人の多くの学習者にとって、外国語ができるようになるということは、
すぐに対応する日本語訳がでてくることであり、
文を正しく日本語に訳せること、なんじゃないだろうか?
一方、いまわたしがやっていることやろうとしていることは、
日本語はとりあえず仕舞って、フランス語だけで世界を構築しようという作業だ。
この作業を続ける限り、わたしは通訳も翻訳も上手くはならない。
つくづく、外国語学習には目的地の見極めがとても大事だ、と思う。
わたしのように生活するための言葉が必要な人間には、
母国語に置き換える作業は(最初は役に立っても)余計な回り道になる。
一方、旅行や仕事のコンタクトといった限られた必要がある場合には、
自分の言葉にベースを置いた勉強が多分一番の近道だ。
日本では権威である実用仏語検定が仏語生活者にとってあまり意味がないのは、
求められている言語力がほぼ100%日本語土壌に拠っているからだ。
日本人が考えるところの(求めるところの)フランス語能力。
だから、わたしがいくら日本語で「フランス語 勉強法」と検索しても、
今のわたしに必要な方法論が出てくるはずがない。行き先が違うんだもの。
そんなわけで、あれやこれやと一人で考え続け、
結局ろくな方法論もないまま、毎日辞書をぱらぱらと眺め、
気になった単語を選んで文を書いてみるとか、
その程度のことしかできていない。
語学に王道なし、と、身に染みてわかっているつもりでも、
目に見える山(1冊)がないとやる気ってなかなか出ないもので。
そうこうしているうちに早くも1月も半ば。
こんなことをしているとまた1年が終わってしまうじゃないか!
と、焦りまくっているところでございます。
と、目標を掲げたわけだけれど、
それですぐに勉強を始めるのではなくて、
まずは方法論から探ってみようとするのが、わたしの欠点なり。
これまで、いかに多くの目標が方法論検索のみで尻切れになったことか。
探していたのは、ボキャビルのやり方だ。
フランス語に限ると量は多くないけれど、
英語学習者は多いから、反復の仕方などで役に立つ情報が多かった。
でも、どうも何かが違う、と感じた。
ボキャビルの話を書いている人のほとんどが、
例えば英語で語彙レベル1万語に達しようとしている人でも、
その単語帳には、英単語と対訳の日本語が並んでいる。
日本語を経由して覚えるって、面倒くさくないのだろうかと思った。
道にりんごが1つ落ちている。
その事実は何語であろうと変わらない。
視覚的に得た情報を、まず日本語で認識してから外国語変換する?
感覚は言葉で認識しているんだろうか?
りんごを見る。
その時には、頭の中ではまだ言葉は生まれていなくて、
たまたま隣にいる相手が日本人だったら「りんご」と言うし、
フランス人だったら「une pomme」と言うだけだ。
頭の中には日本語回路とフランス語回路の2つがあって、
それぞれが感覚とダイレクトに結びついている。
りんごをみたとき、どちらの回路で処理するかによって出てくる言葉が変わる。
そして日本語回路とフランス語回路の間には橋が架かっていて、
お互いにこれとこれは対応してるよね〜と確認しながら交流している。
それが、新しいフランス語単語を日本語訳で覚えようとすると、
フランス語回路が日本語回路に従属してしまうような気がするのだ。
りんごを見た時に、日本語回路経由でフランス語回路に送られる感じ。
視覚とフランス語がダイレクトに結びついていないので、まどろっこしい。
でも、こういうことを言い始めると、日本語で方法論を探すことはできなくなる。
日本人の多くの学習者にとって、外国語ができるようになるということは、
すぐに対応する日本語訳がでてくることであり、
文を正しく日本語に訳せること、なんじゃないだろうか?
一方、いまわたしがやっていることやろうとしていることは、
日本語はとりあえず仕舞って、フランス語だけで世界を構築しようという作業だ。
この作業を続ける限り、わたしは通訳も翻訳も上手くはならない。
つくづく、外国語学習には目的地の見極めがとても大事だ、と思う。
わたしのように生活するための言葉が必要な人間には、
母国語に置き換える作業は(最初は役に立っても)余計な回り道になる。
一方、旅行や仕事のコンタクトといった限られた必要がある場合には、
自分の言葉にベースを置いた勉強が多分一番の近道だ。
日本では権威である実用仏語検定が仏語生活者にとってあまり意味がないのは、
求められている言語力がほぼ100%日本語土壌に拠っているからだ。
日本人が考えるところの(求めるところの)フランス語能力。
だから、わたしがいくら日本語で「フランス語 勉強法」と検索しても、
今のわたしに必要な方法論が出てくるはずがない。行き先が違うんだもの。
そんなわけで、あれやこれやと一人で考え続け、
結局ろくな方法論もないまま、毎日辞書をぱらぱらと眺め、
気になった単語を選んで文を書いてみるとか、
その程度のことしかできていない。
語学に王道なし、と、身に染みてわかっているつもりでも、
目に見える山(1冊)がないとやる気ってなかなか出ないもので。
そうこうしているうちに早くも1月も半ば。
こんなことをしているとまた1年が終わってしまうじゃないか!
と、焦りまくっているところでございます。
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by poirier_AAA
| 2013-01-17 19:27
| 言葉を学ぶ
|
Comments(6)