2015年 06月 05日
これではね |
今日のパリは風もなく、とろりとした初夏の1日。
真っ青な空、木の葉の影が濃い。
建物の壁の白さがまぶしく、目が開けていられない。
去年の今頃は、窓という窓の前に足場が組まれ、覆いがかけられ、
外の景色がまったく見えなかったことを思い出す。
外が見えるだけで、こんなに開放感がある!
今年はお天気がいいというだけで、しみじみ幸せ。
生物的な喜びにどっぷりひたりながら、
なぜだかふっと、昨日佐平次さんのところで読んだ言葉を思い出す。
日本の政府の偉いお方が、こう言ったそうだ。
やるべきことをやってなかった部分まで責任は取れない。
いやぁ、凄いことを言えるものだ。
怒りとか茫然とか、そういう状態をあっさり通り越した地点で思う。
ほんとにすごいと思う。
音や字でしっかり記録として残るとわかっていながら、
こんなことを言っちゃう方も言っちゃう方だが、
こういう台詞を聞いても何ごともなかったかのようにやりすごせる世間も、
それをわぁわぁ言い立てないマスコミも、すごい。
やるべきことをやってなかった部分まで責任は取れない。
あぁ、だから原発を再稼働させても平気なわけだ。
責任はとれませんと尻をまくって逃げられるんだから。
公約を守らなかったとしても責任は追及されないし、
職務を果たさなくても責任をとらなくていい。
電車が時間通りに動かなくても、
学校の先生が、なんとなく休んじゃっても、
医者が手術の途中でいやになって職場放棄しちゃっても、
親が育児を放棄して遊び歩いていても、
送った荷物がちゃんと相手に届かなくても、
なにもかもみんなオッケー。なんでもあり。
いざとなったらこう言えばいい。
やるべきことをやってなかった部分まで責任は取れませんので。
もう神妙に頭を下げてみせる必要すらない。
おお、なんと素晴らしい社会。
というか、こういうのはもはや社会の体を為していない気がする。
構成する人たちがそれぞれ役割を担うことを止めたら、
それはただの人の集まり、でしかない。
それで子どもに道徳を教えないとなんて言うんだから。
あんまりすごすぎて、笑ってしまう。
こういう大人たちを見て育つ子ども。
その子どもたちが担って行く国。
どこへ行くのだろうと思う。
真っ青な空、木の葉の影が濃い。
建物の壁の白さがまぶしく、目が開けていられない。
去年の今頃は、窓という窓の前に足場が組まれ、覆いがかけられ、
外の景色がまったく見えなかったことを思い出す。
外が見えるだけで、こんなに開放感がある!
今年はお天気がいいというだけで、しみじみ幸せ。
生物的な喜びにどっぷりひたりながら、
なぜだかふっと、昨日佐平次さんのところで読んだ言葉を思い出す。
日本の政府の偉いお方が、こう言ったそうだ。
やるべきことをやってなかった部分まで責任は取れない。
いやぁ、凄いことを言えるものだ。
怒りとか茫然とか、そういう状態をあっさり通り越した地点で思う。
ほんとにすごいと思う。
音や字でしっかり記録として残るとわかっていながら、
こんなことを言っちゃう方も言っちゃう方だが、
こういう台詞を聞いても何ごともなかったかのようにやりすごせる世間も、
それをわぁわぁ言い立てないマスコミも、すごい。
やるべきことをやってなかった部分まで責任は取れない。
あぁ、だから原発を再稼働させても平気なわけだ。
責任はとれませんと尻をまくって逃げられるんだから。
公約を守らなかったとしても責任は追及されないし、
職務を果たさなくても責任をとらなくていい。
電車が時間通りに動かなくても、
学校の先生が、なんとなく休んじゃっても、
医者が手術の途中でいやになって職場放棄しちゃっても、
親が育児を放棄して遊び歩いていても、
送った荷物がちゃんと相手に届かなくても、
なにもかもみんなオッケー。なんでもあり。
いざとなったらこう言えばいい。
やるべきことをやってなかった部分まで責任は取れませんので。
もう神妙に頭を下げてみせる必要すらない。
おお、なんと素晴らしい社会。
というか、こういうのはもはや社会の体を為していない気がする。
構成する人たちがそれぞれ役割を担うことを止めたら、
それはただの人の集まり、でしかない。
それで子どもに道徳を教えないとなんて言うんだから。
あんまりすごすぎて、笑ってしまう。
こういう大人たちを見て育つ子ども。
その子どもたちが担って行く国。
どこへ行くのだろうと思う。
by poirier_AAA
| 2015-06-05 00:54
| 世情を考える
|
Comments(8)
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saheizi-inokori at 2015-06-05 10:07
考えれば考えるほど腹がたってきます。
責任を取らない上司がいるならおれだって、、の連続が今です。
こういうのを合理的とか言って支持する人も増えているような気がする。
とくにしょっちゅう頭をさげさせられる企業幹部などに。
責任を取らない上司がいるならおれだって、、の連続が今です。
こういうのを合理的とか言って支持する人も増えているような気がする。
とくにしょっちゅう頭をさげさせられる企業幹部などに。
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poirier_AAA at 2015-06-05 17:02
>saheiziさん、こんにちは。
合理的?????
言語能力が社会全体でガクンと落ちている気がします。意味も知らない言葉を弄んでも平気だし、問題にもならない。自分の言葉をきちんと使えない人が、英語で何を言えるというのでしょう?
ほんと、不思議なことばっかりです。
合理的?????
言語能力が社会全体でガクンと落ちている気がします。意味も知らない言葉を弄んでも平気だし、問題にもならない。自分の言葉をきちんと使えない人が、英語で何を言えるというのでしょう?
ほんと、不思議なことばっかりです。
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fusk
at 2015-06-05 17:57
x
実は昔から、「上?」と呼ばれる体制はこうだったのですよ。切り捨て御免の社会が、そのまま明治になっても、続き。
戦中、国民を捨てて逃げ出す軍部や、軍に邪魔なら「轢き殺せ」と平気で言うような軍人もいた。
ならばなぜ。あそこまで秩序が保たれてきたか。
国民一人一人の民意。倫理観が強かった。
「お天道様に申し訳ない」学校でなくて各自が家庭で仕事場で持っていた気持ち。それが戦後?崩れた。何故?
米国から来た民主主義の所為?まさかね。
長い間。戦争状態で抑えられた忿怒がこんな形にもなったのだろうし、嫌だ嫌だと思ってた家族や村社会の規律が無くなった所為でもあるかもしれない。
でもちょっと前まではまだまだ下?がしっかりしていたのでここまで社会が荒れなかった。どこで変わってしまったのでしょうね?
これって相手が悪い、社会が悪い、上層部が悪いと言うだけでは変わらないと私は思う。
悪い悪いと言ってるうちにそれが当たり前になり。
聞かされている方も聞き流してしまう。そんなものだよねえ。って。だったら自分達もちょっとぐらい悪いことしてもいいだろうと。
それが一番怖いのではないかしら?
戦中、国民を捨てて逃げ出す軍部や、軍に邪魔なら「轢き殺せ」と平気で言うような軍人もいた。
ならばなぜ。あそこまで秩序が保たれてきたか。
国民一人一人の民意。倫理観が強かった。
「お天道様に申し訳ない」学校でなくて各自が家庭で仕事場で持っていた気持ち。それが戦後?崩れた。何故?
米国から来た民主主義の所為?まさかね。
長い間。戦争状態で抑えられた忿怒がこんな形にもなったのだろうし、嫌だ嫌だと思ってた家族や村社会の規律が無くなった所為でもあるかもしれない。
でもちょっと前まではまだまだ下?がしっかりしていたのでここまで社会が荒れなかった。どこで変わってしまったのでしょうね?
これって相手が悪い、社会が悪い、上層部が悪いと言うだけでは変わらないと私は思う。
悪い悪いと言ってるうちにそれが当たり前になり。
聞かされている方も聞き流してしまう。そんなものだよねえ。って。だったら自分達もちょっとぐらい悪いことしてもいいだろうと。
それが一番怖いのではないかしら?
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poirier_AAA at 2015-06-05 23:53
>fuskさん、こんにちは。
今日はいきなり暑くなりましたね〜。子どもの学校の送り迎え、わずか20分足らずの往復なのに、空気の温度の高さでバテました。
切り捨てご免、ありましたね。確かに「上」には根強い「俺様意識」が残っているかもしれません。いちおう(くさっても)民主主義国家の看板を掲げているのですから、上っ面だけでもそれらしさを装わないと、と思ってやっていたのがこれまでの戦後日本。それがいまは、上っ面を整える気もなくなったもんね〜、と開き直っているだけかもしれません。
結局、個人個人の価値観がぐらぐらに揺らいでいて、善悪の基準すら曖昧になっているということでしょうか。人が何をしようと自分はこれはしない、そういう基準が一人一人にあれば、右にならえの社会にはならないような気がするのです。個人を保ち難い社会なのでしょう。個人ではなくて、まず集団ありきの社会、といういうべきか。
学校の様子ひとつとっても、ずいぶん違うなぁと思います。フランスの学校なんて、クラスでまとまらないととか、親はPTA活動に参加しないとなんて、絶対に考えてないですもんね。それでも上手く行く。そういう違いかなぁと思います(フランス礼賛ではないですよ、念のため)
今日はいきなり暑くなりましたね〜。子どもの学校の送り迎え、わずか20分足らずの往復なのに、空気の温度の高さでバテました。
切り捨てご免、ありましたね。確かに「上」には根強い「俺様意識」が残っているかもしれません。いちおう(くさっても)民主主義国家の看板を掲げているのですから、上っ面だけでもそれらしさを装わないと、と思ってやっていたのがこれまでの戦後日本。それがいまは、上っ面を整える気もなくなったもんね〜、と開き直っているだけかもしれません。
結局、個人個人の価値観がぐらぐらに揺らいでいて、善悪の基準すら曖昧になっているということでしょうか。人が何をしようと自分はこれはしない、そういう基準が一人一人にあれば、右にならえの社会にはならないような気がするのです。個人を保ち難い社会なのでしょう。個人ではなくて、まず集団ありきの社会、といういうべきか。
学校の様子ひとつとっても、ずいぶん違うなぁと思います。フランスの学校なんて、クラスでまとまらないととか、親はPTA活動に参加しないとなんて、絶対に考えてないですもんね。それでも上手く行く。そういう違いかなぁと思います(フランス礼賛ではないですよ、念のため)
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poirier_AAA at 2015-06-06 00:18
>うさぎ二匹さん、こんにちは。
ときどき思うんです。
わたしたちは学校で「日本は民主主義国家で、、、」とすごく綺麗な理想図を見せられて、それを多かれ少なかれすっかり信じて大人になったわけですが、実はその「民主主義」自体が上っ面だけのもので、中味はスカスカだった、それを埋める努力もしてこなかった、それが今になってはっきり見えてきたというだけじゃないか、と。
子どもが「日本大好き〜」と言うたびに、とても複雑な気持ちになります。
ときどき思うんです。
わたしたちは学校で「日本は民主主義国家で、、、」とすごく綺麗な理想図を見せられて、それを多かれ少なかれすっかり信じて大人になったわけですが、実はその「民主主義」自体が上っ面だけのもので、中味はスカスカだった、それを埋める努力もしてこなかった、それが今になってはっきり見えてきたというだけじゃないか、と。
子どもが「日本大好き〜」と言うたびに、とても複雑な気持ちになります。
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Mtonosama at 2015-06-06 06:03
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poirier_AAA at 2015-06-06 15:08
>Mtonosamaさん、こんにちは。
どうしてこうなってしまうんでしょうね。
この人がここまで登り詰め、しかもこんな様子でもこの地位にあり続けられるということを見るにつけ、それはもちろん当人もかなり問題だけれど、これを許してしまう母体集団の方にむしろ大きな問題があるのではないか(この人がいなくなっても、また似たような人を担ぎ出してしまうだろう)と思ってしまうのです。
国の顔であるはずの人がさもしいって、情けないですよね。
どうしてこうなってしまうんでしょうね。
この人がここまで登り詰め、しかもこんな様子でもこの地位にあり続けられるということを見るにつけ、それはもちろん当人もかなり問題だけれど、これを許してしまう母体集団の方にむしろ大きな問題があるのではないか(この人がいなくなっても、また似たような人を担ぎ出してしまうだろう)と思ってしまうのです。
国の顔であるはずの人がさもしいって、情けないですよね。