2012年 12月 13日
ファウスト(Met 2011) |
オペラが演出の時代に入ったと言われるようになって久しい。
奇抜な演出に奇抜な衣装。
オーソドックスな演出など意味がないと言わんばかりの創意工夫。
楽しみが増えた、と言えば言えなくもない。
でも、オペラは何よりも歌と音楽あっての舞台芸術なのだ。
コンサート形式のオペラは存在するが、
歌手なし歌なしのオペラは存在し得ない。
であるならば、演出は音楽を邪魔するべきではない、とわたしは思う。
カウフマンがグノーの「ファウスト」のタイトルロールを歌うというので、
いそいそとテレビの前に座ったのが火曜日のこと。
2011年のメトロポリタン・オペラの録画だ。
ファウスト博士は老境にあって、学問のために捧げて来た己の人生が間違っていたのではないかという激しい後悔にとりつかれている。そこに現れたのが悪魔メフィストフェレス。死後の魂を自分に与えると約束してくれるならば、失われた人生をもう一度やり直すチャンスを与えようと甘い誘いを囁く。ファウストはその契約を受け入れる。
今回のファウスト博士は、カビ臭い書斎に埋もれて人生を送った学者ではない。
時代の最先端であった核開発にたずさわった学者である。
核(原子力)に未来を託して研究して来た結果が、広島・長崎への原爆投下。
それを目の当たりにして己の人生に絶望した学者、という設定であるらしい。
舞台は青白く冷たいラボラトリー。
無機的な作業台の上に、冷たい色の器具が並んでいる。
背後には原子爆弾のような形状のものがぶら下がる。
そこに現れたメフィストフェレスは、白い三つ揃いのスーツをビシッと着こなし、
洒落たステッキを振り回す、ダンディな姿だ。
そして物語は進む。
契約によって若返ったファウストは、美しい娘マルグリットを見初め、近づく。
娘は妊娠する。ファウストはそれを捨てる。娘は正気を失う。
行き過ぎた演出は作品を損なう、と思うのはこんなときだ。
人類のためになるはずの研究が殺人兵器として利用された。
その倫理的な苦悩に苛まれて、もう一度人生をやり直したいと願った博士が、
ひとたび若さを取り戻すや、色に狂ったように女の尻を追いかけ回し、
女が妊娠する頃にはもう愛想を尽かして、手袋でも脱ぎ捨てるように捨ててしまう。
で、女が狂うに及んで激しく後悔する。
なんだ、倫理的に納得できる人生を送りたかったんじゃないのか?
あなた、最初の人生の後悔から何も学んでないでしょう?
これではファウストの人物設定が破綻している。
演出がオーソドックスであれば、ファウストの悩みと後悔はシンプルなのだ。
失われてしまった若さ。ついに味わうことのなかった青春時代。
本当の人生を知らないままで続ける研究に、一体何の意味があろう。
自分はついに生きる喜びを知らないままに死んでいくしかないのか?
そして若返って、彼は初めて味わう生の喜びに我を忘れるのである。
青春を取り戻した喜びに理性が吹っ飛んでいる状態ならば、
女と遊んで捨てる、という考えなしの行動にも説明がつく。
やっぱり、もともとの音楽(歌詞)を最大限に尊重して欲しいと思う。
カウフマンがファウストを歌うのを聞くことができて、満足した。
彼が歌うとこういうふうになるのか、と確かめられたことに満足した。
で、正直に言うと、彼はこの役は歌うべきではなかったと感じた。
彼が歌えることはわかっている。上手いこともわかっている。
人気があるから興行成績を上げるためにも一役買っているのは間違いない。
それでも、彼の声はファウスト向きではないのだ。
理想の「ファウスト」を追究するなら、彼の声では駄目だ。
重すぎる。
「ファウスト」は、別名「メフィストフェレス」と呼んでもいいくらい、
準主役のメフィストフェレスの登場頻度が多く、その出来が重要だ。
当然ながら、主役との絡みも多い。
ファウスト(テノール)とメフィストフェレス(バス)の二重唱も多い。
今回のメフィストフェレス役はルネ・パップで、素晴らしい声を聞かせてくれた。
だから二重唱もすごく楽しみなはずなのだけれど、これが映えないのだ。
カウフマンの声が深くて重く、バスの声に近い響きを持っていすぎる。
だから、テノール&バスという音域も声の質も違う二重唱が映えない。
どちらも上手い歌手なのに、もったいなさすぎる。
そして、この男声2人と絡むソプラノが、マリナ・ポプラフスカヤ。
1人で歌うところは悪くないと思ったのだけれど、
この男性陣の中にあると、いささか分が悪いような気がした。
彼女にとっては分が悪く、全体で見ると力量のバランスが悪い。
一番の聞かせどころでもある最後の三重唱で、彼女の声だけ不安定で痩せている。
捨てられて精神を病んでしまった演技は真に迫って怖いくらいだったけれど、
肝心の歌が疎かになっちゃあ本末転倒だ。
‥‥と、なんだか文句ばっかり並べている。
でも、見る価値がないよといっているわけではないので、そこは誤解なさらず。
オペラの楽しみは様々な要素が組み合わさって出来たものを鑑賞することだから、
ここはどうだった、あそこはどうだった、ここをもっと良くすれば、
なんて終わった後であれこれ考えるのが結構楽しいのだ。
その時々の舞台を楽しみながら、
自分の理想はこうなんだけどなぁと考えるのが、
オペラファンの秘かな、しかし止められない楽しみなんじゃないかと思う。
しかし、カウフマン。
若くてハンサムで声も素晴らしくて、人気があるのはよくわかる。
あれもこれも歌ってくれるのはファンにとってはすごく嬉しいことでもある。
でも、自分の声を大事にして欲しいと心から願っている。
彼をプロデュースする人達も、彼と彼の声を安売りしないで欲しい。
技術的に可能かどうかではなく、音楽に相応しいかどうかという判断も必要だし、
声を最大限に良い状態で保つためにも、無闇にいろいろ歌わせるのは良くない。
オペラが演出の時代になるとともに、歌手も消費材になりさがり、
お客を呼べるか?という判断だけで集められているような気がする。
歌手にとっては受難の時代なんじゃないかな。
その最たるものがカウフマンのような気がして、
ちょっと痛々しさを感じてもいるのである。
カウフマン、これからも長く活躍して欲しいのです。
このオペラの全編を見ることができます。
全部見るには3時間必要なのですけど、よかったらお試し下さい。
http://www.youtube.com/watch?v=FxBLCY8NuBM
奇抜な演出に奇抜な衣装。
オーソドックスな演出など意味がないと言わんばかりの創意工夫。
楽しみが増えた、と言えば言えなくもない。
でも、オペラは何よりも歌と音楽あっての舞台芸術なのだ。
コンサート形式のオペラは存在するが、
歌手なし歌なしのオペラは存在し得ない。
であるならば、演出は音楽を邪魔するべきではない、とわたしは思う。
カウフマンがグノーの「ファウスト」のタイトルロールを歌うというので、
いそいそとテレビの前に座ったのが火曜日のこと。
2011年のメトロポリタン・オペラの録画だ。
ファウスト博士は老境にあって、学問のために捧げて来た己の人生が間違っていたのではないかという激しい後悔にとりつかれている。そこに現れたのが悪魔メフィストフェレス。死後の魂を自分に与えると約束してくれるならば、失われた人生をもう一度やり直すチャンスを与えようと甘い誘いを囁く。ファウストはその契約を受け入れる。
今回のファウスト博士は、カビ臭い書斎に埋もれて人生を送った学者ではない。
時代の最先端であった核開発にたずさわった学者である。
核(原子力)に未来を託して研究して来た結果が、広島・長崎への原爆投下。
それを目の当たりにして己の人生に絶望した学者、という設定であるらしい。
舞台は青白く冷たいラボラトリー。
無機的な作業台の上に、冷たい色の器具が並んでいる。
背後には原子爆弾のような形状のものがぶら下がる。
そこに現れたメフィストフェレスは、白い三つ揃いのスーツをビシッと着こなし、
洒落たステッキを振り回す、ダンディな姿だ。
そして物語は進む。
契約によって若返ったファウストは、美しい娘マルグリットを見初め、近づく。
娘は妊娠する。ファウストはそれを捨てる。娘は正気を失う。
行き過ぎた演出は作品を損なう、と思うのはこんなときだ。
人類のためになるはずの研究が殺人兵器として利用された。
その倫理的な苦悩に苛まれて、もう一度人生をやり直したいと願った博士が、
ひとたび若さを取り戻すや、色に狂ったように女の尻を追いかけ回し、
女が妊娠する頃にはもう愛想を尽かして、手袋でも脱ぎ捨てるように捨ててしまう。
で、女が狂うに及んで激しく後悔する。
なんだ、倫理的に納得できる人生を送りたかったんじゃないのか?
あなた、最初の人生の後悔から何も学んでないでしょう?
これではファウストの人物設定が破綻している。
演出がオーソドックスであれば、ファウストの悩みと後悔はシンプルなのだ。
失われてしまった若さ。ついに味わうことのなかった青春時代。
本当の人生を知らないままで続ける研究に、一体何の意味があろう。
自分はついに生きる喜びを知らないままに死んでいくしかないのか?
そして若返って、彼は初めて味わう生の喜びに我を忘れるのである。
青春を取り戻した喜びに理性が吹っ飛んでいる状態ならば、
女と遊んで捨てる、という考えなしの行動にも説明がつく。
やっぱり、もともとの音楽(歌詞)を最大限に尊重して欲しいと思う。
カウフマンがファウストを歌うのを聞くことができて、満足した。
彼が歌うとこういうふうになるのか、と確かめられたことに満足した。
で、正直に言うと、彼はこの役は歌うべきではなかったと感じた。
彼が歌えることはわかっている。上手いこともわかっている。
人気があるから興行成績を上げるためにも一役買っているのは間違いない。
それでも、彼の声はファウスト向きではないのだ。
理想の「ファウスト」を追究するなら、彼の声では駄目だ。
重すぎる。
「ファウスト」は、別名「メフィストフェレス」と呼んでもいいくらい、
準主役のメフィストフェレスの登場頻度が多く、その出来が重要だ。
当然ながら、主役との絡みも多い。
ファウスト(テノール)とメフィストフェレス(バス)の二重唱も多い。
今回のメフィストフェレス役はルネ・パップで、素晴らしい声を聞かせてくれた。
だから二重唱もすごく楽しみなはずなのだけれど、これが映えないのだ。
カウフマンの声が深くて重く、バスの声に近い響きを持っていすぎる。
だから、テノール&バスという音域も声の質も違う二重唱が映えない。
どちらも上手い歌手なのに、もったいなさすぎる。
そして、この男声2人と絡むソプラノが、マリナ・ポプラフスカヤ。
1人で歌うところは悪くないと思ったのだけれど、
この男性陣の中にあると、いささか分が悪いような気がした。
彼女にとっては分が悪く、全体で見ると力量のバランスが悪い。
一番の聞かせどころでもある最後の三重唱で、彼女の声だけ不安定で痩せている。
捨てられて精神を病んでしまった演技は真に迫って怖いくらいだったけれど、
肝心の歌が疎かになっちゃあ本末転倒だ。
‥‥と、なんだか文句ばっかり並べている。
でも、見る価値がないよといっているわけではないので、そこは誤解なさらず。
オペラの楽しみは様々な要素が組み合わさって出来たものを鑑賞することだから、
ここはどうだった、あそこはどうだった、ここをもっと良くすれば、
なんて終わった後であれこれ考えるのが結構楽しいのだ。
その時々の舞台を楽しみながら、
自分の理想はこうなんだけどなぁと考えるのが、
オペラファンの秘かな、しかし止められない楽しみなんじゃないかと思う。
しかし、カウフマン。
若くてハンサムで声も素晴らしくて、人気があるのはよくわかる。
あれもこれも歌ってくれるのはファンにとってはすごく嬉しいことでもある。
でも、自分の声を大事にして欲しいと心から願っている。
彼をプロデュースする人達も、彼と彼の声を安売りしないで欲しい。
技術的に可能かどうかではなく、音楽に相応しいかどうかという判断も必要だし、
声を最大限に良い状態で保つためにも、無闇にいろいろ歌わせるのは良くない。
オペラが演出の時代になるとともに、歌手も消費材になりさがり、
お客を呼べるか?という判断だけで集められているような気がする。
歌手にとっては受難の時代なんじゃないかな。
その最たるものがカウフマンのような気がして、
ちょっと痛々しさを感じてもいるのである。
カウフマン、これからも長く活躍して欲しいのです。
このオペラの全編を見ることができます。
全部見るには3時間必要なのですけど、よかったらお試し下さい。
http://www.youtube.com/watch?v=FxBLCY8NuBM
by poirier_AAA
| 2012-12-13 18:37
| 聴く
|
Comments(2)
Commented
by
lotosblume
at 2012-12-14 15:23
x
オペラ談議、面白かったです。音楽がお好きなのですね。
オペラは古今東西共通のテーマを持っています。
愛、恋、片思い、恨み、怒り、策略、親子の繋がり、それに宗教や歴史等が色を添える。いつの時代にも共通のテーマです。
人間が生きていくうえで、人と接してそこに自分と違う何かを見出したときに起こる感情が、美しい音楽と訓練された声で演奏される。
時代に共通のテーマは、衣装がどのような物であろうと、訴えてくるものは力があり説得力がある。現代に生きる私たちもそのストーリーを自分に置き換えて、または身近なものに変身させて、ストーリーの中に入っていく。
私はその時代の物、作者が意図した時代のものが好みですが、それだと衣装に非常にお金がかかるのでしょうね。よくはわかりませんが、勝手にそのように解釈していました。
最近オペラが重く感じるようになってきました。
ドラマチックで酔いしれるほど美しい旋律やストーリーが面倒くさい?と感じることがあって、ここのところずーっとご無沙汰です。
バッハで言えば、マタイ受難曲よりカンタータに惹かれるこの頃です。
文字がオーバーとでましたので止めますね。
オペラは古今東西共通のテーマを持っています。
愛、恋、片思い、恨み、怒り、策略、親子の繋がり、それに宗教や歴史等が色を添える。いつの時代にも共通のテーマです。
人間が生きていくうえで、人と接してそこに自分と違う何かを見出したときに起こる感情が、美しい音楽と訓練された声で演奏される。
時代に共通のテーマは、衣装がどのような物であろうと、訴えてくるものは力があり説得力がある。現代に生きる私たちもそのストーリーを自分に置き換えて、または身近なものに変身させて、ストーリーの中に入っていく。
私はその時代の物、作者が意図した時代のものが好みですが、それだと衣装に非常にお金がかかるのでしょうね。よくはわかりませんが、勝手にそのように解釈していました。
最近オペラが重く感じるようになってきました。
ドラマチックで酔いしれるほど美しい旋律やストーリーが面倒くさい?と感じることがあって、ここのところずーっとご無沙汰です。
バッハで言えば、マタイ受難曲よりカンタータに惹かれるこの頃です。
文字がオーバーとでましたので止めますね。
0
Commented
by
poirier_AAA at 2012-12-14 17:33
>lotosblumeさん、こんにちは。
こんなに長い記事を、最後まで読んでいただいてありがとうございました。
わたしの書き方がまずかったかもしれませんね。わたしは時代ががった衣装や舞台がいいと思っているわけではなくて、演出の自由度にも限度があるだろうと思っているだけなのです。面白い演出は作品の魅力を倍増させます。舞台設定が抽象的だと、それだけ作品の解釈に奥行きが出ることもあります。今回は演出家の「こう考えて欲しい」という意図が全面に出過ぎていて、その世界に入り込めないと作品にも入り込めない状態だと感じました。だから、逆に作品を損なっていると思ったのです。
音楽が重く感じる、という感覚はなんとなくわかります。わたしもこちらに来てから交響曲が重くて聞きたくなくなり、室内楽、古楽系を好むようになりました。モーツアルトの「レクイエム」だと重くて、ヴィクトリアの「レクイエム」だとOKという感じなのです。
それなのに、なぜかオペラならヴェルディでもワーグナーでも大丈夫なんです。
変ですよね。
こんなに長い記事を、最後まで読んでいただいてありがとうございました。
わたしの書き方がまずかったかもしれませんね。わたしは時代ががった衣装や舞台がいいと思っているわけではなくて、演出の自由度にも限度があるだろうと思っているだけなのです。面白い演出は作品の魅力を倍増させます。舞台設定が抽象的だと、それだけ作品の解釈に奥行きが出ることもあります。今回は演出家の「こう考えて欲しい」という意図が全面に出過ぎていて、その世界に入り込めないと作品にも入り込めない状態だと感じました。だから、逆に作品を損なっていると思ったのです。
音楽が重く感じる、という感覚はなんとなくわかります。わたしもこちらに来てから交響曲が重くて聞きたくなくなり、室内楽、古楽系を好むようになりました。モーツアルトの「レクイエム」だと重くて、ヴィクトリアの「レクイエム」だとOKという感じなのです。
それなのに、なぜかオペラならヴェルディでもワーグナーでも大丈夫なんです。
変ですよね。