2012年 03月 07日
Sofi Oksanen「Purge」 |
2010年のフェミナ賞外国語部門賞受賞作
ソフィ・オクサネン「粛清」
本屋に立ち寄ったら文庫版が出ていたので、いそいそと購入した。本当は日本語訳が出る前に読み終わりたかったけれど(日本語では読めないとわかると気合いの入り方が違う、ような気がする)、子どものお休みと重なってしまい、今頃ようやく読み終わった。
久しぶりに最後まで読めたフランス語本。日をまたいで読むことになっても、子どもに邪魔ばかりされても、眠気に負けそうになっても、それでも最後まで読み通すことができたのは、ひとえに読者をぐいぐい引っ張っていく力のある作品だったからだと思う。内容が内容なのでこういう形容詞を使うのはどうかとも思うが、面白かった。先が知りたくてたまらない気持ちで読んだ。
舞台はエストニア。いわゆるバルト三国と呼ばれる国の、一番フィンランド寄りに位置する小国。その片田舎に独り居する老女アリーダの庭に、ある日ボロ布のように惨めな姿の娘が現れる。娘の名前はザラ。傷つき、憔悴し、しかも怯え切っている。老女は娘を疑いながらも家に招き入れ、食ベるものを出し風呂の用意をする。
5部構成の作品の第1部が、この邂逅の描写に費やされる。謎めいた、明らかに誰かから逃げようとしている若い娘。それを匿う老女も決してただの穏やかな田舎の女ではない、いわくありげな様子。これがどこに続くのだろうと思っていると、第1部の終わりにあっと驚く事実が用意されている。
そして第2部に入る。舞台はぐっと時代をさかのぼって1930年代。アリーダの若い頃の話が始まる。第1部の暗さを払拭するかのような、若さのエネルギーと若い娘らしい甘さを感じる描写。この部分が個人的には一番引き込まれた部分。有無を言わせずこちらをアリーダの心に重ねてしまうパワーがあった。
が、若い娘の心の動きに夢中になっているうちに、いつのまにか足下に時代の影が忍び寄ってくる。1930年代後半といえばわかる。じわじわと第二次世界大戦に向かっていく時代だ。でも、エストニアってどうだったのだろう?このあたりの歴史の知識がまったくないわたしは、あわてて時代背景を調べる。巻末にエストニアのおおまかな歴史年表がついているので、それを見ながら足りない部分を調べ足していく。
エストニア共和国。バルト海に面した小さな国。国土の面積を比べたら日本の半分にも遠く及ばない。その小さな国の隣には巨大な国土を持つロシアがある。となると歴史も自ずから見えてくるようだ。wikipediaで歴史を見ると、まず最初にこう出てくる。《エストニアは13世紀以来デンマーク人、ドイツ系騎士団、スウェーデン、ロシア帝国と外国勢力に支配されてきた》
物語の舞台になった20世紀に注目しようとすると、まず18世紀初頭までさかのぼらなければならない。それまでも他国の支配を受けて来たエストニアだけれど、18世紀初頭以降はロシアの一部として見なされた。が、1917年のロシア革命勃発に際してエストニアは独立を宣言。1920年にはソ連がエストニアの独立を承認。話の主人公のアリーダは、エストニアが独立した後の1925年に生まれた設定だ。だから、彼女の少女時代はエストニアに脱ロシアのナショナリズムが溢れた時代だったと言える。
その状況が変わったのが1939年。第二次世界大戦の勃発。再びソ連が手を伸ばしてくる。1940年にソ連はエストニアに侵攻。エストニアはソ連の支配を受け入れる。ここで、大規模な粛清が行われる。
やがて戦況が変わる。今度はナチス・ドイツがソ連に侵攻してくる。一時、エストニアはドイツに支配される。すると今度はナチスによるユダヤ人迫害が始まる。
そして再びソ連の支配。ドイツ人は姿を消し、かわりに赤い旗が翻る。またしても粛清。以降、第二次世界大戦が終息した後もエストニアはソ連の一部でありつづけ、それが独立に辿り着いたのはペレストロイカ後の1991年のことだった。
物語に戻ると、アリーダの庭にザラが辿り着いたのが1992年とされている。つまり、物語自体は20世紀前半のエストニア独立から20世紀後半のエストニアの再独立までの話ということになる。舞台の背景がわかったところで、ようやく人間関係に集中する余裕ができた。
いつの時代もどんな場所でも、人はそれぞれ大変な思いをして一生懸命生きて来た。でも、そういう大変さは何かキッカケがないと外にいる人間の目には見えにくい。大国の影で圧し潰されながら、それでも一つの国として独立しようとしたエストニアの苦渋や、そこに生きた人たちの苦しみなど、この本を読まなかったら考えることもなかったかもしれないと思う。歴史に翻弄されるとは、まさにこういう立場にある人に使う言葉だとも思った。
20世紀のエストニアの歴史、それに並行してペレストロイカ後のロシアという国の暗部を眺めて多くのことを学びながらも、この作品のテーマはあくまでもアリーダという1人の女性だ。ザラも重要な登場人物だけれど(彼女の身に起きたことはステレオタイプ的ながらも現実を映しているのだろう)、言ってみればアリーダにとっての過去の亡霊という役割だ。すべてはアリーダの人生に凝縮されていく。
このアリーダという人物、人はどんなふうに読むだろう?醜い、唾棄すべき人物として嫌悪感を抱く人もいるだろうか?わたしは親近感を感じた。どこにでもいる1人の女。時代に翻弄され、人生に弄ばれた哀れな女。一瞬「風とともに去りぬ」のスカーレットを思い浮かべてしまった。自分を知らず、他人も見えず、ひたすらアシュレを理想の男性として求める女。アリーダはもっと冷静で現実的だけれど、叶わぬ恋によって人生を曲げてしまった点ではスカーレットとよく似ている。
この作品を紹介したル・モンドの記事に、作者のこんな言葉が出ていた。
「Puhdistus(フィンランド語の原題)は、きれいにするという行為のすべて含んだ言葉です。掃除する、洗う、精製する、消毒する‥‥‥と同時に、民族浄化やスターリン的な粛清も意味するのです」
作品を読み終わって納得。描かれている時代背景としては「粛清」が相応しい。けれどもテーマは「粛清」の時代を生きた女の、人生の「清算」だと思う。時代のせいで絶えず人に裁かれ続けて来た人間が、キッカケを得て自分で自分の人生のケリをつけようとする。他人の人生を覗き見して伴走して、読み終わったときはその重さの前にふうっと大きく息を吐いた。
先日「小説の中の原発事故」というタイトルの中で紹介したのも、この作品の一部。これだけ歴史に翻弄され、更に原発事故の影響まで被っているエストニア。でも、残念ながら原発事故に関してはこの「きれいにする」を意味するタイトルにそぐわないのだよね。どう頑張ってみたところで浄化なんて到底しきれない量の毒を、世界中に抱え、さらに日々増やしているわたしたち。
ソフィ・オクサネン「粛清」
本屋に立ち寄ったら文庫版が出ていたので、いそいそと購入した。本当は日本語訳が出る前に読み終わりたかったけれど(日本語では読めないとわかると気合いの入り方が違う、ような気がする)、子どものお休みと重なってしまい、今頃ようやく読み終わった。
久しぶりに最後まで読めたフランス語本。日をまたいで読むことになっても、子どもに邪魔ばかりされても、眠気に負けそうになっても、それでも最後まで読み通すことができたのは、ひとえに読者をぐいぐい引っ張っていく力のある作品だったからだと思う。内容が内容なのでこういう形容詞を使うのはどうかとも思うが、面白かった。先が知りたくてたまらない気持ちで読んだ。
舞台はエストニア。いわゆるバルト三国と呼ばれる国の、一番フィンランド寄りに位置する小国。その片田舎に独り居する老女アリーダの庭に、ある日ボロ布のように惨めな姿の娘が現れる。娘の名前はザラ。傷つき、憔悴し、しかも怯え切っている。老女は娘を疑いながらも家に招き入れ、食ベるものを出し風呂の用意をする。
5部構成の作品の第1部が、この邂逅の描写に費やされる。謎めいた、明らかに誰かから逃げようとしている若い娘。それを匿う老女も決してただの穏やかな田舎の女ではない、いわくありげな様子。これがどこに続くのだろうと思っていると、第1部の終わりにあっと驚く事実が用意されている。
そして第2部に入る。舞台はぐっと時代をさかのぼって1930年代。アリーダの若い頃の話が始まる。第1部の暗さを払拭するかのような、若さのエネルギーと若い娘らしい甘さを感じる描写。この部分が個人的には一番引き込まれた部分。有無を言わせずこちらをアリーダの心に重ねてしまうパワーがあった。
が、若い娘の心の動きに夢中になっているうちに、いつのまにか足下に時代の影が忍び寄ってくる。1930年代後半といえばわかる。じわじわと第二次世界大戦に向かっていく時代だ。でも、エストニアってどうだったのだろう?このあたりの歴史の知識がまったくないわたしは、あわてて時代背景を調べる。巻末にエストニアのおおまかな歴史年表がついているので、それを見ながら足りない部分を調べ足していく。
エストニア共和国。バルト海に面した小さな国。国土の面積を比べたら日本の半分にも遠く及ばない。その小さな国の隣には巨大な国土を持つロシアがある。となると歴史も自ずから見えてくるようだ。wikipediaで歴史を見ると、まず最初にこう出てくる。《エストニアは13世紀以来デンマーク人、ドイツ系騎士団、スウェーデン、ロシア帝国と外国勢力に支配されてきた》
物語の舞台になった20世紀に注目しようとすると、まず18世紀初頭までさかのぼらなければならない。それまでも他国の支配を受けて来たエストニアだけれど、18世紀初頭以降はロシアの一部として見なされた。が、1917年のロシア革命勃発に際してエストニアは独立を宣言。1920年にはソ連がエストニアの独立を承認。話の主人公のアリーダは、エストニアが独立した後の1925年に生まれた設定だ。だから、彼女の少女時代はエストニアに脱ロシアのナショナリズムが溢れた時代だったと言える。
その状況が変わったのが1939年。第二次世界大戦の勃発。再びソ連が手を伸ばしてくる。1940年にソ連はエストニアに侵攻。エストニアはソ連の支配を受け入れる。ここで、大規模な粛清が行われる。
やがて戦況が変わる。今度はナチス・ドイツがソ連に侵攻してくる。一時、エストニアはドイツに支配される。すると今度はナチスによるユダヤ人迫害が始まる。
そして再びソ連の支配。ドイツ人は姿を消し、かわりに赤い旗が翻る。またしても粛清。以降、第二次世界大戦が終息した後もエストニアはソ連の一部でありつづけ、それが独立に辿り着いたのはペレストロイカ後の1991年のことだった。
物語に戻ると、アリーダの庭にザラが辿り着いたのが1992年とされている。つまり、物語自体は20世紀前半のエストニア独立から20世紀後半のエストニアの再独立までの話ということになる。舞台の背景がわかったところで、ようやく人間関係に集中する余裕ができた。
いつの時代もどんな場所でも、人はそれぞれ大変な思いをして一生懸命生きて来た。でも、そういう大変さは何かキッカケがないと外にいる人間の目には見えにくい。大国の影で圧し潰されながら、それでも一つの国として独立しようとしたエストニアの苦渋や、そこに生きた人たちの苦しみなど、この本を読まなかったら考えることもなかったかもしれないと思う。歴史に翻弄されるとは、まさにこういう立場にある人に使う言葉だとも思った。
20世紀のエストニアの歴史、それに並行してペレストロイカ後のロシアという国の暗部を眺めて多くのことを学びながらも、この作品のテーマはあくまでもアリーダという1人の女性だ。ザラも重要な登場人物だけれど(彼女の身に起きたことはステレオタイプ的ながらも現実を映しているのだろう)、言ってみればアリーダにとっての過去の亡霊という役割だ。すべてはアリーダの人生に凝縮されていく。
このアリーダという人物、人はどんなふうに読むだろう?醜い、唾棄すべき人物として嫌悪感を抱く人もいるだろうか?わたしは親近感を感じた。どこにでもいる1人の女。時代に翻弄され、人生に弄ばれた哀れな女。一瞬「風とともに去りぬ」のスカーレットを思い浮かべてしまった。自分を知らず、他人も見えず、ひたすらアシュレを理想の男性として求める女。アリーダはもっと冷静で現実的だけれど、叶わぬ恋によって人生を曲げてしまった点ではスカーレットとよく似ている。
この作品を紹介したル・モンドの記事に、作者のこんな言葉が出ていた。
「Puhdistus(フィンランド語の原題)は、きれいにするという行為のすべて含んだ言葉です。掃除する、洗う、精製する、消毒する‥‥‥と同時に、民族浄化やスターリン的な粛清も意味するのです」
作品を読み終わって納得。描かれている時代背景としては「粛清」が相応しい。けれどもテーマは「粛清」の時代を生きた女の、人生の「清算」だと思う。時代のせいで絶えず人に裁かれ続けて来た人間が、キッカケを得て自分で自分の人生のケリをつけようとする。他人の人生を覗き見して伴走して、読み終わったときはその重さの前にふうっと大きく息を吐いた。
先日「小説の中の原発事故」というタイトルの中で紹介したのも、この作品の一部。これだけ歴史に翻弄され、更に原発事故の影響まで被っているエストニア。でも、残念ながら原発事故に関してはこの「きれいにする」を意味するタイトルにそぐわないのだよね。どう頑張ってみたところで浄化なんて到底しきれない量の毒を、世界中に抱え、さらに日々増やしているわたしたち。
by poirier_AAA
| 2012-03-07 06:49
| フランス語を読む
|
Comments(6)
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Mtonosama at 2012-03-08 06:22
先日書いていらしたのはこの本のことだったのですか。
浄化というのはプラスの意味で捉えることが多かったのですが、
必ずしもそうではないのですね。
セルビアの戦争の時も民族浄化という恐ろしい言葉が出てきましたし…
随分分厚い本のようですが、読んでみたいです。
浄化というのはプラスの意味で捉えることが多かったのですが、
必ずしもそうではないのですね。
セルビアの戦争の時も民族浄化という恐ろしい言葉が出てきましたし…
随分分厚い本のようですが、読んでみたいです。
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saheizi-inokori at 2012-03-08 10:23
先日はモンゴルが中国に蹂躙されている現実の話を読んだばかりです。
大部分の日本人はそういう意味では「見て見ぬふりをして」太平楽に生きています。
日本国内でも琉球や奄美の物語はそう遠いことではないのに。
大部分の日本人はそういう意味では「見て見ぬふりをして」太平楽に生きています。
日本国内でも琉球や奄美の物語はそう遠いことではないのに。
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poirier_AAA at 2012-03-08 18:39
>mtonosamaさん、こんにちは。
この作品、多くの言葉に翻訳されて読まれているようです。信憑性のほどはわかりませんが、映画化の話もあるとかないとか。。ただ、気持ちのよくない場面もあるので、個人的には本で読む方がいいんですけれど。
きれいにするって、日常的な感覚ではプラスの言葉ですよね。でも、民族とか思想が関わってくると途端にものすごく怖い言葉になります。
抗菌抗菌と騒いで殺菌している対象が実は体に役立つ細菌だったり、仏教徒には尊いお釈迦様の像がイスラム教徒にとっては許せない偶像だったり、、、立ち位置が変わっただけでまるきり正反対に判断されることって多いですよね。人間の判断って、ほとんどすべてが相対的なもの、自分本位のものなんだなぁと思いながら読みました。
この作品、多くの言葉に翻訳されて読まれているようです。信憑性のほどはわかりませんが、映画化の話もあるとかないとか。。ただ、気持ちのよくない場面もあるので、個人的には本で読む方がいいんですけれど。
きれいにするって、日常的な感覚ではプラスの言葉ですよね。でも、民族とか思想が関わってくると途端にものすごく怖い言葉になります。
抗菌抗菌と騒いで殺菌している対象が実は体に役立つ細菌だったり、仏教徒には尊いお釈迦様の像がイスラム教徒にとっては許せない偶像だったり、、、立ち位置が変わっただけでまるきり正反対に判断されることって多いですよね。人間の判断って、ほとんどすべてが相対的なもの、自分本位のものなんだなぁと思いながら読みました。
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poirier_AAA at 2012-03-08 18:48
>saheiziさん、こんにちは。
本や映画、人の話などをキッカケとして知ることができればいいですが、世の中に知らないこと気づかずにいることが山のようにあるのでしょうね。その一方で、沖縄や原爆、水俣病といった、身近にあるとわかっているのに敢えてよく知ろうとしなかった話もあります。
自分の無知を謙虚に自覚して、きちんと目を開けてまわりを眺められるようでありたいです。
本や映画、人の話などをキッカケとして知ることができればいいですが、世の中に知らないこと気づかずにいることが山のようにあるのでしょうね。その一方で、沖縄や原爆、水俣病といった、身近にあるとわかっているのに敢えてよく知ろうとしなかった話もあります。
自分の無知を謙虚に自覚して、きちんと目を開けてまわりを眺められるようでありたいです。
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coco
at 2012-03-11 20:27
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poirier_AAA at 2012-03-12 19:34
>cocoさん、
わたしはこの辺りの国のことを全然知らなかったので、目が開いた感じがしました。他の本も探してみようかなぁと思っているところです。それにしても、日本の図書館って充実してる〜。新刊がすぐに入るっていいですね。
わたしはこの辺りの国のことを全然知らなかったので、目が開いた感じがしました。他の本も探してみようかなぁと思っているところです。それにしても、日本の図書館って充実してる〜。新刊がすぐに入るっていいですね。