2011年 08月 29日
死ぬこと、生きること |
息子の1人が、ある晩ソファに座っているわたしの膝の上で猫のように丸まって、言うのです。
ぼく、大人になりたくないの。
これは由々しきことです。いつまでも子どものまま、ずっと脛を齧られ続けたら、親のわたしたちが困ります。きちんとした大人になって独立してもらうことが子育ての大目標です。大人になりたくないという、その心は如何に?
ボクが大人になったら、ママンはおばあちゃんになって、そうしたら死んじゃうかもしれない。ママンが死んじゃうのはイヤなの。死んで欲しくないの。
これも困ります。人間とは必ずいつか死ぬものです。わたしたちは、そういう生物のひとつとして生まれて来た。母親が例外になれないように、子にも例外はない。死は逃れられない。それは誤摩化せない現実です。でも、子どもにはやっぱり重い。切なくて愛しくて、思わず子どもをぎゅうっと抱きしめました。
ボクは大人になったらパパになるの?
そうだね、大きくなって子どもが生まれたらパパになるね。
ボクがパパになったら、ママンはおばあちゃんになるんでしょ。
そうだね。
おばあちゃんになったら、もう後はなるものがないでしょ。死んじゃうんでしょ。
息子の論理にしたがうと、人の一生は出世魚のようです。
ある名前にゆきついたら、その先はもうないのです。
ちょっと待て。キミは小さい頃、ひいおばあちゃんに会ったでしょうが。
うん。
おばあちゃんの次にはひいおばあちゃんになるんだよ。
でも、ひいおばあちゃんの次は?
ひいひいおばあちゃんでしょう。ママンがひいひいおばあちゃんになる頃には、キミはひいおじいちゃんだよ。
え〜、そうなの?じゃあ、そのあとは?
ひいひいひいおばあちゃんです。
嘘だぁ。
嘘じゃないよ。そうやって命が続いて行くんだよ。
長谷川義史の「おじいちゃんのおじいちゃんのおじいちゃんのおじいちゃん」という絵本みたいな話です。ご先祖様の名前も顔も生き方もなにひとつ知らなくても、わたしたちがここにいるっていうことが、つまりご先祖様がいたことの証です。来る時が来たら体は無くなってしまうけれど、子孫が続く限り、実はどこかしらで生き続けているとも言えます。
藤原新也さんがブログの中でこんなことを書いておられました。
「(人間が滅びることは)米粒大のある種のアマゾン赤蛙が絶滅したこととその重みにおいて変わるところはないでしょう。いや、というよりなるべく早く滅びて、他の罪なき何十万種の生物を、その滅びと引き換えに生かしてあげたい。」
あれだけの大事故を引き起こした日本という国やそこにある企業の在り方を日々見るにつけ、人間は地球を滅ぼすために生きているのではないかと悲観したくなります。美しい自然を守りたいなどというくらいなら、人間が滅びるのが一番手っ取り早い。間違いありません。
それでも、そういう業の深い人間という種を考えるときでも、わたしは自分の息子たちだけは除外したいと思ってしまうのです。人類が滅びることになっても、子どもだけは生かしたい。子どもの死を見ることだけは耐えられない。それが正直な気持ちです。
子どもが欲しいと思うのも、子どもだけは生かしたいと思うのも、自分より先に子どもが死ぬのはイヤだと思うのも、すべては存在することだけが目的の利己的なDNAの在り方に繋がるんだろうとは思います。そういうDNAの生理が、人間の頭には尊い情と感じられる。たぶんそういうことなんだろうと頭では想像できても、感情の動きは止められません。
けれど、そういう感情とは別な部分で、わたしたちは「生を全うする」ことを考えることが出来ます。死を考えるのは重いです。いい年をした大人になってもそれは変わりません。それでも、よく生きることができたら、よい死を迎えられるかもしれないとも考えられるようになりました。
死を怖がる幼い息子を前に、どうやったらよく生きること、命を大切にすることを教えられるだろうかと、こんな話が飛び出してくるたびに考えるのです。
‥‥と、ここまで書いてアップしてからハッと思いました。こういうことって、話して教えるんじゃなくて、親が背中で毎日毎日伝えていくことなんだろうなぁ、と。子どもにあれこれ言う前に、まずは自分から、楽しく、気持ちよく、真面目に、適当に、潔く、頑固に、しっかり、肩の力を抜いて、ちゃあんと生きてみせないと。あはは、こりゃあ話して聞かせるよりよりずっと難しいや。
ぼく、大人になりたくないの。
これは由々しきことです。いつまでも子どものまま、ずっと脛を齧られ続けたら、親のわたしたちが困ります。きちんとした大人になって独立してもらうことが子育ての大目標です。大人になりたくないという、その心は如何に?
ボクが大人になったら、ママンはおばあちゃんになって、そうしたら死んじゃうかもしれない。ママンが死んじゃうのはイヤなの。死んで欲しくないの。
これも困ります。人間とは必ずいつか死ぬものです。わたしたちは、そういう生物のひとつとして生まれて来た。母親が例外になれないように、子にも例外はない。死は逃れられない。それは誤摩化せない現実です。でも、子どもにはやっぱり重い。切なくて愛しくて、思わず子どもをぎゅうっと抱きしめました。
ボクは大人になったらパパになるの?
そうだね、大きくなって子どもが生まれたらパパになるね。
ボクがパパになったら、ママンはおばあちゃんになるんでしょ。
そうだね。
おばあちゃんになったら、もう後はなるものがないでしょ。死んじゃうんでしょ。
息子の論理にしたがうと、人の一生は出世魚のようです。
ある名前にゆきついたら、その先はもうないのです。
ちょっと待て。キミは小さい頃、ひいおばあちゃんに会ったでしょうが。
うん。
おばあちゃんの次にはひいおばあちゃんになるんだよ。
でも、ひいおばあちゃんの次は?
ひいひいおばあちゃんでしょう。ママンがひいひいおばあちゃんになる頃には、キミはひいおじいちゃんだよ。
え〜、そうなの?じゃあ、そのあとは?
ひいひいひいおばあちゃんです。
嘘だぁ。
嘘じゃないよ。そうやって命が続いて行くんだよ。
長谷川義史の「おじいちゃんのおじいちゃんのおじいちゃんのおじいちゃん」という絵本みたいな話です。ご先祖様の名前も顔も生き方もなにひとつ知らなくても、わたしたちがここにいるっていうことが、つまりご先祖様がいたことの証です。来る時が来たら体は無くなってしまうけれど、子孫が続く限り、実はどこかしらで生き続けているとも言えます。
藤原新也さんがブログの中でこんなことを書いておられました。
「(人間が滅びることは)米粒大のある種のアマゾン赤蛙が絶滅したこととその重みにおいて変わるところはないでしょう。いや、というよりなるべく早く滅びて、他の罪なき何十万種の生物を、その滅びと引き換えに生かしてあげたい。」
あれだけの大事故を引き起こした日本という国やそこにある企業の在り方を日々見るにつけ、人間は地球を滅ぼすために生きているのではないかと悲観したくなります。美しい自然を守りたいなどというくらいなら、人間が滅びるのが一番手っ取り早い。間違いありません。
それでも、そういう業の深い人間という種を考えるときでも、わたしは自分の息子たちだけは除外したいと思ってしまうのです。人類が滅びることになっても、子どもだけは生かしたい。子どもの死を見ることだけは耐えられない。それが正直な気持ちです。
子どもが欲しいと思うのも、子どもだけは生かしたいと思うのも、自分より先に子どもが死ぬのはイヤだと思うのも、すべては存在することだけが目的の利己的なDNAの在り方に繋がるんだろうとは思います。そういうDNAの生理が、人間の頭には尊い情と感じられる。たぶんそういうことなんだろうと頭では想像できても、感情の動きは止められません。
けれど、そういう感情とは別な部分で、わたしたちは「生を全うする」ことを考えることが出来ます。死を考えるのは重いです。いい年をした大人になってもそれは変わりません。それでも、よく生きることができたら、よい死を迎えられるかもしれないとも考えられるようになりました。
死を怖がる幼い息子を前に、どうやったらよく生きること、命を大切にすることを教えられるだろうかと、こんな話が飛び出してくるたびに考えるのです。
‥‥と、ここまで書いてアップしてからハッと思いました。こういうことって、話して教えるんじゃなくて、親が背中で毎日毎日伝えていくことなんだろうなぁ、と。子どもにあれこれ言う前に、まずは自分から、楽しく、気持ちよく、真面目に、適当に、潔く、頑固に、しっかり、肩の力を抜いて、ちゃあんと生きてみせないと。あはは、こりゃあ話して聞かせるよりよりずっと難しいや。
by poirier_AAA
| 2011-08-29 20:05
| 子どもと暮らす
|
Comments(6)
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saheizi-inokori at 2011-08-29 21:36
私も子供の頃、母が死ぬということを考えると気絶しそうな気持になりました。毎晩布団に入るとそのことを考えるので夜が来なければいいと思ったものです。
でもおっしゃる通りそのとき生命の連鎖のことを聞いても理解・納得は出来なかったと思います。
今でも、今日高木仁三郎と宮沢賢治のことを書きましたが、やはり心底なっとくしてはいないのですから。
でもおっしゃる通りそのとき生命の連鎖のことを聞いても理解・納得は出来なかったと思います。
今でも、今日高木仁三郎と宮沢賢治のことを書きましたが、やはり心底なっとくしてはいないのですから。
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kanafr at 2011-08-30 07:32
私は小学校入学と同時に、それまで一緒にいたおば夫婦から離れ母と一緒に生活し始めましたが、ある日急に「死んだらどうなるんだろう。ママとやっと一緒になったのにもう会えなくなってしまうんだろうか。そこはどんな世界なんだろうか」と考え始めたら寝れなくなり3日間泣きとおしました。どうなるの?と泣きながら質問しても、私のように悲しそうな顔をしない母が凄く意地悪に見えたものです。
自分がどのように解決したかは忘れているんですが、幼い頃№2も同じ質問をした事があり、私も小さい時同じ事を考えた事、一生懸命生きた人に神様がちょっと休憩しなさいっていう事かもしれないねと言ったら完全には納得はしませんでしたが、その話はそれで終りになりました。でも№2が確実に死を理解したのは、やはり母の死だったと思います。顔つきが少し変わりましたから。
そうやって終わる命を見せるって親戚もこの外国にいない№2にとっては大事な事だったって思っています。
自分がどのように解決したかは忘れているんですが、幼い頃№2も同じ質問をした事があり、私も小さい時同じ事を考えた事、一生懸命生きた人に神様がちょっと休憩しなさいっていう事かもしれないねと言ったら完全には納得はしませんでしたが、その話はそれで終りになりました。でも№2が確実に死を理解したのは、やはり母の死だったと思います。顔つきが少し変わりましたから。
そうやって終わる命を見せるって親戚もこの外国にいない№2にとっては大事な事だったって思っています。
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coco
at 2011-08-30 10:18
x
はらら・・・
僕ちゃんの一言、親としては問題にしちゃうかもだけれど
第三者からはかなり“ホロ”っとくる一言ですよぉ。
そうやってママ~ってくっついてきて、ママの老いを思って
悲しみに暮れて・・・なんて、ま~かわいらしいじゃあ
ないですか?!
私は子供の頃、素直に死についての恐怖を親に話す事が
出来なかったですよ。(今もそうですが)
でも、現実を直視して大人になっていく事もまた必要
ですよね。世界がディズニーの様だと思ってもらっちゃ
困りますもんねー。
ところで、兄弟同士ではそういうこと話し合ったりする
んでしょうかね?
僕ちゃんの一言、親としては問題にしちゃうかもだけれど
第三者からはかなり“ホロ”っとくる一言ですよぉ。
そうやってママ~ってくっついてきて、ママの老いを思って
悲しみに暮れて・・・なんて、ま~かわいらしいじゃあ
ないですか?!
私は子供の頃、素直に死についての恐怖を親に話す事が
出来なかったですよ。(今もそうですが)
でも、現実を直視して大人になっていく事もまた必要
ですよね。世界がディズニーの様だと思ってもらっちゃ
困りますもんねー。
ところで、兄弟同士ではそういうこと話し合ったりする
んでしょうかね?
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poirier_AAA at 2011-08-30 20:37
>saheiziさん、こんにちは。
わたしの場合は祖母でした。祖母がいなくなることは世界が崩れ落ちるに等しく、突然がむしゃらに抱きついて大声で叫んだりして驚かせたことが何度もあります。でも、本人を前に理由は言えませんでした。
その祖母が死んだ時、喪失感もあったけれど、死=無ではないというような強い感じを持ちました。佐平次さんが引用された賢治の言葉「じつにわたくしは水や風やそれらの核の一部分でそれをわたくしが感じることは光や風ぜんたいがわたくしなのだ。」というのに近いのです。何か大きなものの一部として、1つの事象として人間の生があるだけで、大きな流れ全体から見たら、死も生も格別ドラマティックなことではないのかもしれない。祖母は人の形は失ったけれど、それが無になったことにはならない。そんな気がしたのです。納得したというより、とにかく感覚的にそう思ったというのが近いです。
でも、こういうことを話すのはとても難しい。子どもに問われるたびに自分と向き合わないとなりません。なんだか子どもに導かれているような感じもしますよ。
わたしの場合は祖母でした。祖母がいなくなることは世界が崩れ落ちるに等しく、突然がむしゃらに抱きついて大声で叫んだりして驚かせたことが何度もあります。でも、本人を前に理由は言えませんでした。
その祖母が死んだ時、喪失感もあったけれど、死=無ではないというような強い感じを持ちました。佐平次さんが引用された賢治の言葉「じつにわたくしは水や風やそれらの核の一部分でそれをわたくしが感じることは光や風ぜんたいがわたくしなのだ。」というのに近いのです。何か大きなものの一部として、1つの事象として人間の生があるだけで、大きな流れ全体から見たら、死も生も格別ドラマティックなことではないのかもしれない。祖母は人の形は失ったけれど、それが無になったことにはならない。そんな気がしたのです。納得したというより、とにかく感覚的にそう思ったというのが近いです。
でも、こういうことを話すのはとても難しい。子どもに問われるたびに自分と向き合わないとなりません。なんだか子どもに導かれているような感じもしますよ。
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poirier_AAA at 2011-08-30 21:12
>kanafrさん、こんにちは。
あまりにも質問が難しいので、こういうとき「子どもの質問にたじろぐ親のための想定問答集」みたいな本があればいいのになんて思うほどです。でも多分、こういう問いを通して親と子が年齢の壁を越えて話し合ったり、お互いを確認し合ったりするのでしょうね。これが所謂哲学に繋がっていくようにも思います。
この話、最近よく話題になるのです。いま子どもの頭の中に大きく居座っているのだと思います。どう答えたら自分にも子どもにも誠実な答えになるだろうかと、こちらも真剣に考えてしまいます。もともとが抽象的な話ですし、しかも親も正確な答えがわからないらしい、それどころか親も迷って困っているみたいだという感じが子どもにもはっきり伝わるんでしょうね。余計に不安が募るようです。なんとか上手く糸をほぐしてやれたら良いのだけれどと思っています。
あまりにも質問が難しいので、こういうとき「子どもの質問にたじろぐ親のための想定問答集」みたいな本があればいいのになんて思うほどです。でも多分、こういう問いを通して親と子が年齢の壁を越えて話し合ったり、お互いを確認し合ったりするのでしょうね。これが所謂哲学に繋がっていくようにも思います。
この話、最近よく話題になるのです。いま子どもの頭の中に大きく居座っているのだと思います。どう答えたら自分にも子どもにも誠実な答えになるだろうかと、こちらも真剣に考えてしまいます。もともとが抽象的な話ですし、しかも親も正確な答えがわからないらしい、それどころか親も迷って困っているみたいだという感じが子どもにもはっきり伝わるんでしょうね。余計に不安が募るようです。なんとか上手く糸をほぐしてやれたら良いのだけれどと思っています。
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poirier_AAA at 2011-08-30 21:22
>cocoさん、こんにちは。
こういうことを言われると、親としてはじーんと来ますね。こういう可愛らしいことを言ってくれる時期もあっという間に過ぎてしまうんでしょう。だから尚更、この一瞬が愛おしいですよ。
幼稚園時代って、赤ちゃんから子どもへの大きな過渡期なんだと思います。赤ちゃんって目に見える世界がすべてでしょ。でも子どもになると目の前にないことも含めて世界を認識し始めるんです。傍で見ていると感動的ですらあります。(普段は小憎らしいけれど)
兄弟同士ではそういう話はほとんど出ないみたいです。遊ぶのに忙しすぎて考えるゆとりがないんでしょうね。食事をしているときとか、疲れてソファーでゴロゴロしている時に、親を相手にこの手の話を出してきますよ。
こういうことを言われると、親としてはじーんと来ますね。こういう可愛らしいことを言ってくれる時期もあっという間に過ぎてしまうんでしょう。だから尚更、この一瞬が愛おしいですよ。
幼稚園時代って、赤ちゃんから子どもへの大きな過渡期なんだと思います。赤ちゃんって目に見える世界がすべてでしょ。でも子どもになると目の前にないことも含めて世界を認識し始めるんです。傍で見ていると感動的ですらあります。(普段は小憎らしいけれど)
兄弟同士ではそういう話はほとんど出ないみたいです。遊ぶのに忙しすぎて考えるゆとりがないんでしょうね。食事をしているときとか、疲れてソファーでゴロゴロしている時に、親を相手にこの手の話を出してきますよ。