2011年 06月 02日
夢の名残が |
夢を見た。
東京から来た友人を地元の名所に案内した帰り道、駅前のお土産コーナーでお土産選びにつきあっているわたし。銘産品はほとんどすべてが和菓子だ。これはこういうお味で、これはこういう意匠でなどと説明している時に、わたくしはひょいと顔を上げてカウンターの向こうのお兄さんに問いかけたのだ。
そういえば、この辺の美味しいぼたもち屋さんといったら何処かしら?
青年はニッコリして2つお菓子屋さんの名を挙げた。どちらも知らない店。その話を耳にしたとみられる女性たちがどんどん集まって来た。お土産コーナーの何処にこんなに地元民が潜んでいたのだとびっくりするほどの人数。その人たちが、口々に言うのだ。「○丁目の○○は美味しいわよ」「それより××がいいわよ」地元の住所のはずなのに、聞いたことのない名前ばかりがずらずら出てくる。どうしよう、これじゃ結局買いに行かれないじゃない、そう困りきったところで目が覚めた。
結局ぼたもちを口にできずに夢は終わった。
こうなると、滅茶苦茶心残りだ。明るくなり始めた窓をにらみながら、悶々と、悶々と、悶々とぼたもちのことを考え続けた。
そういえば、我が実家ではぼたもちとは呼ばなかった。春でも秋でも常に「おはぎ」と呼んでいた。“ぼたもち”という音が女性陣に嫌われたのかもしれないねと、今は思う。で、その「おはぎ」はいつも祖母が作ってくれた。
餅米を炊いて、炊きあがった米をすりこぎで搗いて、それを俵型にまとめていく。やけどするから危ないと、実家にいるあいだはその作業はさせてもらえなかった。でも祖母の目を盗んで炊きあがったばかりの餅米の味見をするのが大好きだった。
俵型のお餅が触れるくらいになったら、あんこをつける。左の手のひらにあんこを広げて、そこにお餅を置いておまんじゅうを包むような感じでまとめていく。この作業はいつも手伝った。こしあんのすべらかな感触が懐かしい。
実家のおはぎは小振りだった。少女の両手ですっぽりと包み込めるサイズ。小食の母が1つでお腹一杯になるような大きいのはイヤだと言いはったのだ。でも男性陣は田舎サイズの大きいのが恋しい。祖母は、だから大きくもなく小さすぎもしないサイズで作った。「もうちょっと小さければねぇ」「おはぎってもっとこう大きいもんだよな、本当は」と家族がそれぞれ一言漏らす中庸サイズのおはぎが、わたしの基本サイズとなった。
あんこは近所のお菓子屋さんに買いに行った。わたしはよくお使いに行った。クラスメートの家族が経営するお菓子屋さんで、行くといつもおまけをしてくれた。田舎のあんこだったけど、甘すぎず上品過ぎもせず、美味しかったなぁ。そして、あんこは絶対にこしあんが好きなのだ、わたしは。
その祖母のおはぎも、やがて疲れすぎるからという理由で作られなくなった。お彼岸だからおはぎを作りたいんだけどねぇ、と言葉を濁してため息をつく祖母の姿が悲しく、愛しかった。
思うに、わたしは圧倒的に和菓子派なんだと思う。
あんこを食べて、おせんべいを齧って、お茶を飲む。これしかないでしょ。
サロン・ドュ・ショコラという大きなチョコレートの祭典がパリでは毎年開かれるのだけれど、わたしはほとんど興味を感じない。チョコレートにもケーキにもそれほど心は動かされない。むしろ、だ、サロン・ドュ・あんこなんてものがあったら、すごくいそいそと出かけちゃうと思うね。
そんなわけで、独り暮しの東京でもときどき食べたくなったのよね、ぼたもち。和菓子屋さんの店先にあんこをまとってお行儀よく並んでいる姿を見かけると、ついふらふらと近寄っちゃう。平均的なぼたもちのサイズは、わたしが慣れ親しんだサイズよりずっと大きい。甘さもあるから1個食べたらお腹いっぱいになる。そうとわかっていても1個下さいとは頼みにくいもので、見栄を張って3個4個と頼む。食べながら、実家の可愛いサイズのおはぎは良かったよねぇと思ったものだ。
パリは大都会なので日本の和菓子屋さんもある。とらや、とかね。
とらやでもぼたもちを扱っているのかしらん。でも問題は、とらやの羊羹の甘さがわたしにはちょっとクドいと感じられるということ。羊羹の味って、そのお店のあんこの味と基本は同じはず。とするとちょっと躊躇われるね、だ。
残る手段は、自分で作る、だ。
餅米と小豆を買って来て、イチから全部自力でやる。
餅米は何とかなるかもしれないけど、わたし、あんこって作ったことがない。
しかもこしあんを作るとなったら手間が更にかかりそうだよねぇ。
自分で煮たあんこは、気になる小豆の皮も愛しく感じられるだろうか?
でも、あんこを煮て練るのって、たしかすご〜く時間がかかるんだよね。
できるかなぁ。。。。
できるかなぁ。。。。。。。
ベッドの中で何度も寝返りを打ちながら、延々とぼたもちのことを考え続けた。
考えれば考えるほど、思い出せば思い出すほど、
理想のぼたもちの姿も味もクリアにイメージできて、
ますます困り果てる。
買うにしても作るにしても、道は遠いよ。
ぼたもちの夢のせいで、すっかり目が冴えてしまった朝。
こういう食べ物の夢って、本当に困るよねぇ。
頭から離れないんだもん。
姿が目にちらつくんだもん。
そして、舌に味が蘇るような気がするんだもん。
で、手に入れるのは難しいときたもんだ。
ぼたもち、ぼたもち、ぶつぶつ、ぶつぶつ。。。。。。。。。。。。
東京から来た友人を地元の名所に案内した帰り道、駅前のお土産コーナーでお土産選びにつきあっているわたし。銘産品はほとんどすべてが和菓子だ。これはこういうお味で、これはこういう意匠でなどと説明している時に、わたくしはひょいと顔を上げてカウンターの向こうのお兄さんに問いかけたのだ。
そういえば、この辺の美味しいぼたもち屋さんといったら何処かしら?
青年はニッコリして2つお菓子屋さんの名を挙げた。どちらも知らない店。その話を耳にしたとみられる女性たちがどんどん集まって来た。お土産コーナーの何処にこんなに地元民が潜んでいたのだとびっくりするほどの人数。その人たちが、口々に言うのだ。「○丁目の○○は美味しいわよ」「それより××がいいわよ」地元の住所のはずなのに、聞いたことのない名前ばかりがずらずら出てくる。どうしよう、これじゃ結局買いに行かれないじゃない、そう困りきったところで目が覚めた。
結局ぼたもちを口にできずに夢は終わった。
こうなると、滅茶苦茶心残りだ。明るくなり始めた窓をにらみながら、悶々と、悶々と、悶々とぼたもちのことを考え続けた。
そういえば、我が実家ではぼたもちとは呼ばなかった。春でも秋でも常に「おはぎ」と呼んでいた。“ぼたもち”という音が女性陣に嫌われたのかもしれないねと、今は思う。で、その「おはぎ」はいつも祖母が作ってくれた。
餅米を炊いて、炊きあがった米をすりこぎで搗いて、それを俵型にまとめていく。やけどするから危ないと、実家にいるあいだはその作業はさせてもらえなかった。でも祖母の目を盗んで炊きあがったばかりの餅米の味見をするのが大好きだった。
俵型のお餅が触れるくらいになったら、あんこをつける。左の手のひらにあんこを広げて、そこにお餅を置いておまんじゅうを包むような感じでまとめていく。この作業はいつも手伝った。こしあんのすべらかな感触が懐かしい。
実家のおはぎは小振りだった。少女の両手ですっぽりと包み込めるサイズ。小食の母が1つでお腹一杯になるような大きいのはイヤだと言いはったのだ。でも男性陣は田舎サイズの大きいのが恋しい。祖母は、だから大きくもなく小さすぎもしないサイズで作った。「もうちょっと小さければねぇ」「おはぎってもっとこう大きいもんだよな、本当は」と家族がそれぞれ一言漏らす中庸サイズのおはぎが、わたしの基本サイズとなった。
あんこは近所のお菓子屋さんに買いに行った。わたしはよくお使いに行った。クラスメートの家族が経営するお菓子屋さんで、行くといつもおまけをしてくれた。田舎のあんこだったけど、甘すぎず上品過ぎもせず、美味しかったなぁ。そして、あんこは絶対にこしあんが好きなのだ、わたしは。
その祖母のおはぎも、やがて疲れすぎるからという理由で作られなくなった。お彼岸だからおはぎを作りたいんだけどねぇ、と言葉を濁してため息をつく祖母の姿が悲しく、愛しかった。
思うに、わたしは圧倒的に和菓子派なんだと思う。
あんこを食べて、おせんべいを齧って、お茶を飲む。これしかないでしょ。
サロン・ドュ・ショコラという大きなチョコレートの祭典がパリでは毎年開かれるのだけれど、わたしはほとんど興味を感じない。チョコレートにもケーキにもそれほど心は動かされない。むしろ、だ、サロン・ドュ・あんこなんてものがあったら、すごくいそいそと出かけちゃうと思うね。
そんなわけで、独り暮しの東京でもときどき食べたくなったのよね、ぼたもち。和菓子屋さんの店先にあんこをまとってお行儀よく並んでいる姿を見かけると、ついふらふらと近寄っちゃう。平均的なぼたもちのサイズは、わたしが慣れ親しんだサイズよりずっと大きい。甘さもあるから1個食べたらお腹いっぱいになる。そうとわかっていても1個下さいとは頼みにくいもので、見栄を張って3個4個と頼む。食べながら、実家の可愛いサイズのおはぎは良かったよねぇと思ったものだ。
パリは大都会なので日本の和菓子屋さんもある。とらや、とかね。
とらやでもぼたもちを扱っているのかしらん。でも問題は、とらやの羊羹の甘さがわたしにはちょっとクドいと感じられるということ。羊羹の味って、そのお店のあんこの味と基本は同じはず。とするとちょっと躊躇われるね、だ。
残る手段は、自分で作る、だ。
餅米と小豆を買って来て、イチから全部自力でやる。
餅米は何とかなるかもしれないけど、わたし、あんこって作ったことがない。
しかもこしあんを作るとなったら手間が更にかかりそうだよねぇ。
自分で煮たあんこは、気になる小豆の皮も愛しく感じられるだろうか?
でも、あんこを煮て練るのって、たしかすご〜く時間がかかるんだよね。
できるかなぁ。。。。
できるかなぁ。。。。。。。
ベッドの中で何度も寝返りを打ちながら、延々とぼたもちのことを考え続けた。
考えれば考えるほど、思い出せば思い出すほど、
理想のぼたもちの姿も味もクリアにイメージできて、
ますます困り果てる。
買うにしても作るにしても、道は遠いよ。
ぼたもちの夢のせいで、すっかり目が冴えてしまった朝。
こういう食べ物の夢って、本当に困るよねぇ。
頭から離れないんだもん。
姿が目にちらつくんだもん。
そして、舌に味が蘇るような気がするんだもん。
で、手に入れるのは難しいときたもんだ。
ぼたもち、ぼたもち、ぶつぶつ、ぶつぶつ。。。。。。。。。。。。
by poirier_AAA
| 2011-06-02 17:29
| 思い出す
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