2010年 12月 27日
贈り物考 |
25日前は、あと○日でこの贈り物の山が片付くんだ、と指折り数えて眺めていた居間の片隅。すっきりしたのは贈り物を車に積むために運び出した一瞬だけで、次に家に戻ったときには、持ち出した体積の2倍くらいの量を運び込むことになってしまいました。
チョコレートの大箱やアルコール類は定番なので、まぁ予想の範囲内です。
今回はそれに、大量の子どものおもちゃが加わり、
子ども用のキックボードも2つ貰い、
更に大人用にとエスプレッソマシーンまで貰ってしまいました。
嬉しいのですけれど、ちょっと困っています。
エスプレッソマシーンは、いくら何でも貰い過ぎだろうと感じているのです。わたしたち夫婦が贈った物と比べると、どう考えても釣り合いが取れません。いえ、夫はもう少し金額をかけた贈り物をしたがったのです。けれどもわたしが「このままでは贈り物合戦になってしまうから、敢えて簡素に行くべきだ」と主張して、夫を説き伏せたのです。それがこんな結果になってしまいました。
贈り物をするって難しいなぁと毎回思います。
実際問題、現代のように家庭に物があふれ、欲しいと思った物が割合簡単に手に入る時代にあって、それでも敢えて物を贈りあうことにどんな意味があるんだろうと個人的には思われてならないのです。誕生日にも贈り物をするんだから、クリスマスはチョコレートとアルコールだけに定番化してしまってもいいのでは?敢えて物を贈らないという選択肢だって、あってもいいと思うんです。
以前「地球家族ー世界30か国のふつうの暮らし」という写真集を見ました。
様々な国の家族をひとつずつ選び、家の前に家財道具一式を運び出してもらって、それと一緒に家族写真を撮ったものです。
衝撃的でした。理解しているつもりだったことが、実際に眺めてみると甘い想像の域を脱していなかったことがよくわかりました。それほど歴然と家財道具の量に差があったのです。砂漠に暮らす家族のなんと身軽なことか。対照的に、日本人の暮らしのなんと物に埋もれていることか。生きるために最低限必要な物って、一体どれだけあるんだろう?そんなことを考えました。
今回は子どもも本当にたくさんのものを貰いました。大勢の人から甘やかしてもらえる我が子はしあわせです。でも、貰ったおもちゃの量が必ずしも受けた愛情と比例するわけでもありません。プレゼントの量とも使った金額とも関係ないところに、もっと大事なものがあるんだよと言いたくてたまりません。たくさんの人からありとあらゆるおもちゃを貰って、でも目移りしてしまってどれにも愛情を注げずに居る子どもと、大好きな人から貰った他愛無いおもちゃを後生大事に抱えている子どもと、一体どちらが幸福なんだろうと思うのです。
欲しいと思った物がすぐ手に入る環境に生きていることはしあわせだと思います。その一方で、便利さと引き換えに捨て去ったものが間違いなくあるのです。飽食も贅沢も習慣化してしまうのは恐ろしい。どれだけ特別なことなのか理解できなくなることが怖いと思います。既に親のわたしたちからして便利な暮らししか知らないのです。子どもたちはどんなふうに“物が足りない”とか“もったいない”ということを学ぶんだろう?ひょっとして、いまの子どもたちはそんな感覚を持たないままで大人になってしまうのかしらん?
怒濤の聖誕祭ウィークエンドを過ぎ、疲れた胃をかかえ、弛緩した頭でそんなことを考えております。
チョコレートの大箱やアルコール類は定番なので、まぁ予想の範囲内です。
今回はそれに、大量の子どものおもちゃが加わり、
子ども用のキックボードも2つ貰い、
更に大人用にとエスプレッソマシーンまで貰ってしまいました。
嬉しいのですけれど、ちょっと困っています。
エスプレッソマシーンは、いくら何でも貰い過ぎだろうと感じているのです。わたしたち夫婦が贈った物と比べると、どう考えても釣り合いが取れません。いえ、夫はもう少し金額をかけた贈り物をしたがったのです。けれどもわたしが「このままでは贈り物合戦になってしまうから、敢えて簡素に行くべきだ」と主張して、夫を説き伏せたのです。それがこんな結果になってしまいました。
贈り物をするって難しいなぁと毎回思います。
実際問題、現代のように家庭に物があふれ、欲しいと思った物が割合簡単に手に入る時代にあって、それでも敢えて物を贈りあうことにどんな意味があるんだろうと個人的には思われてならないのです。誕生日にも贈り物をするんだから、クリスマスはチョコレートとアルコールだけに定番化してしまってもいいのでは?敢えて物を贈らないという選択肢だって、あってもいいと思うんです。
以前「地球家族ー世界30か国のふつうの暮らし」という写真集を見ました。
様々な国の家族をひとつずつ選び、家の前に家財道具一式を運び出してもらって、それと一緒に家族写真を撮ったものです。
衝撃的でした。理解しているつもりだったことが、実際に眺めてみると甘い想像の域を脱していなかったことがよくわかりました。それほど歴然と家財道具の量に差があったのです。砂漠に暮らす家族のなんと身軽なことか。対照的に、日本人の暮らしのなんと物に埋もれていることか。生きるために最低限必要な物って、一体どれだけあるんだろう?そんなことを考えました。
今回は子どもも本当にたくさんのものを貰いました。大勢の人から甘やかしてもらえる我が子はしあわせです。でも、貰ったおもちゃの量が必ずしも受けた愛情と比例するわけでもありません。プレゼントの量とも使った金額とも関係ないところに、もっと大事なものがあるんだよと言いたくてたまりません。たくさんの人からありとあらゆるおもちゃを貰って、でも目移りしてしまってどれにも愛情を注げずに居る子どもと、大好きな人から貰った他愛無いおもちゃを後生大事に抱えている子どもと、一体どちらが幸福なんだろうと思うのです。
欲しいと思った物がすぐ手に入る環境に生きていることはしあわせだと思います。その一方で、便利さと引き換えに捨て去ったものが間違いなくあるのです。飽食も贅沢も習慣化してしまうのは恐ろしい。どれだけ特別なことなのか理解できなくなることが怖いと思います。既に親のわたしたちからして便利な暮らししか知らないのです。子どもたちはどんなふうに“物が足りない”とか“もったいない”ということを学ぶんだろう?ひょっとして、いまの子どもたちはそんな感覚を持たないままで大人になってしまうのかしらん?
怒濤の聖誕祭ウィークエンドを過ぎ、疲れた胃をかかえ、弛緩した頭でそんなことを考えております。
by poirier_AAA
| 2010-12-27 21:03
| 日々の断片
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