2010年 10月 03日
言葉は重い |
偽善者だと言われるかもしれないけれど、わたしは人やモノに対して「悪しき」という形容詞を使うのに抵抗がある。たぶん、自分では一生使うことはないと思う。
「悪しき」って、つまり絶対悪でしょ?
どんな言い訳の余地もない、交渉の余地もない、視点が変わっても「悪」であることに変わりない、とにかくどこもかしこも塗り込めたような黒ってことでしょ?
そういうものって存在するんだろうか?
例えば宗教的なバックグラウンドが違うとか、たまたま表面に見えている姿がこちらにとって好ましくないとか、何かの理由で切羽詰まって行動してしまったのかもしれないし、ひょっとしたら相手もはずみでしてしまって後悔しているかもしれない、ただ単に知識の不足が下手な行動に走らせたのかもしれない。
人の行動や、モノの形には、いろいろな理由やキッカケがある。
でも、いったん「悪しき」と判断してしまったら、もう逡巡の余地はない。悪いモノは悪い。悪に対しては絶対にノーと言おう!正しいのはこちらだから。
例えば人間関係のことを考えれば、自分から望んで築いた人間関係よりも、外的要因で結ばれた人間関係の方が圧倒的に多いんじゃないかと思う。たまたま同じ家に生まれた、たまたま隣に住んでいた、たまたま同じクラスになった、同じ学校になった、同じ会社で、同じ職場で、同じ通勤電車で、同じレストランで、同じ病院で、たまたま縁があった人たち。そんな、たまたま巡り会った人たちと如何に気持ちよくやっていけるかが、実は生活の心地良さを決める重要な要素だったりする。
たまたま巡り会った人たちが、かならずしも自分にとって好ましい人であるとは限らない。引っ越した先が、自分にとってパーフェクトな環境であるとは限らない。それでも、人は何とかして自分に居心地がいいように、お互い気持ちよくやって行けるように努力する。まわりの条件が決まってしまっているなら、それを気持ちよくするか悪くするかは自分の腕次第。そうじゃないかな?
「悪しき」と言い切ってしまうのは、相手の立場についておもんぱかることも、何とか関係を良くしようと努力することも、すべて放棄してしまうことのように感じる。たまたま巡り会わせた相手に「悪しき」というレッテルを貼付けることは簡単だけれど、簡単なだけに自分の努力する気のなさ、やる気のなさ、立ち向かうだけの覚悟や知恵の不足を暴露してしまっているとも見える。
自分とは異なる相手だからこそ、よく知り、尊重もし、お互いが納得する点を探す努力をしなければならない。話し合わなければならない。冷静に計算もし、抜け目なく交渉しなければならない。何とかしてつきあっていかなければならない。自分がそういう態度で臨まなかったら、相手にだって何も望めない。
いろいろ言い始めるときりがない。でもね、一度口を出てしまった言葉は戻らない。それは人間関係でも国同士の関係でも、ちゃんと気にかけていないといけないんじゃないかと思っている。
「悪しき」って、つまり絶対悪でしょ?
どんな言い訳の余地もない、交渉の余地もない、視点が変わっても「悪」であることに変わりない、とにかくどこもかしこも塗り込めたような黒ってことでしょ?
そういうものって存在するんだろうか?
例えば宗教的なバックグラウンドが違うとか、たまたま表面に見えている姿がこちらにとって好ましくないとか、何かの理由で切羽詰まって行動してしまったのかもしれないし、ひょっとしたら相手もはずみでしてしまって後悔しているかもしれない、ただ単に知識の不足が下手な行動に走らせたのかもしれない。
人の行動や、モノの形には、いろいろな理由やキッカケがある。
でも、いったん「悪しき」と判断してしまったら、もう逡巡の余地はない。悪いモノは悪い。悪に対しては絶対にノーと言おう!正しいのはこちらだから。
例えば人間関係のことを考えれば、自分から望んで築いた人間関係よりも、外的要因で結ばれた人間関係の方が圧倒的に多いんじゃないかと思う。たまたま同じ家に生まれた、たまたま隣に住んでいた、たまたま同じクラスになった、同じ学校になった、同じ会社で、同じ職場で、同じ通勤電車で、同じレストランで、同じ病院で、たまたま縁があった人たち。そんな、たまたま巡り会った人たちと如何に気持ちよくやっていけるかが、実は生活の心地良さを決める重要な要素だったりする。
たまたま巡り会った人たちが、かならずしも自分にとって好ましい人であるとは限らない。引っ越した先が、自分にとってパーフェクトな環境であるとは限らない。それでも、人は何とかして自分に居心地がいいように、お互い気持ちよくやって行けるように努力する。まわりの条件が決まってしまっているなら、それを気持ちよくするか悪くするかは自分の腕次第。そうじゃないかな?
「悪しき」と言い切ってしまうのは、相手の立場についておもんぱかることも、何とか関係を良くしようと努力することも、すべて放棄してしまうことのように感じる。たまたま巡り会わせた相手に「悪しき」というレッテルを貼付けることは簡単だけれど、簡単なだけに自分の努力する気のなさ、やる気のなさ、立ち向かうだけの覚悟や知恵の不足を暴露してしまっているとも見える。
自分とは異なる相手だからこそ、よく知り、尊重もし、お互いが納得する点を探す努力をしなければならない。話し合わなければならない。冷静に計算もし、抜け目なく交渉しなければならない。何とかしてつきあっていかなければならない。自分がそういう態度で臨まなかったら、相手にだって何も望めない。
いろいろ言い始めるときりがない。でもね、一度口を出てしまった言葉は戻らない。それは人間関係でも国同士の関係でも、ちゃんと気にかけていないといけないんじゃないかと思っている。
by poirier_AAA
| 2010-10-03 19:17
| 日々の断片
|
Comments(1)
Commented
at 2010-10-04 12:49
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。