2010年 09月 20日
日本人 |
多分フランスに引っ越してきてから初めてだと思う、たくさんの日本人家族が集まった場所に出かけた。どんなところか興味があったし、子どもたちにも「日本人と日本語だらけ」の雰囲気を味わわせてやりたかった。
会場に一歩足を踏み入れると、そこはリトル・ジャパン、いやフランスだからプチ・ジャポンであろうか、とにかく雰囲気が全然違うのでびっくり。
清潔で
関係者はきちんと役割分担されているし、
みな親切で
案内表示は丁寧だし
時間通りに進行するし
その時間割も日本らしい細かさで作られているし
久しぶりに日本風の心地良さにすっきりした心持ちになった。ぐるりと会場を一巡りして、すみずみまで目の行き届いた会場に「あぁ、確かにこうだった」と自分の過去を確認する思い。
が、フランス式のどんぶり勘定に慣れてしまったせいか、なんという細かさであろうかとだんだん息苦しくもなってきた。細かい決まり事があるからここまで統制がとれているとも言えるかな?でも、いわゆる“人の良識にまかせます”というような部分が少なくて、ここは〜をする場所です、何時からです、〜はしないで下さい、〜して下さい、と行動のすべてを先読みされて指示を出されている感じがする。う〜ん、これで息苦しいと感じるということは、もう日本の社会には(特にお役所とか学校とか、ひょっとするとアマチュア・オーケストラみたいな趣味の団体ですら)入れないかもしれないな。思い切り“異端者”になってしまうぞ、わたし。
その他にも、あれぇっと驚いた発見がいくつか。
日本人、本当にしょっちゅう頭を下げている。知っている人に会うと挨拶(ぺこっ)会場の担当者もお客さんに向って挨拶(ペこっ、あなたにもぺこっ)、ああそうですか、そうですよねえなどと話の最中にも頭がひょこひょこ動く。
昔々、夫に連れられて初めてポルトガルに行った時、あちらの人に「頭を下げてばっかりいるねぇ」と面白がられたことを思い出した。ありがとう、こんにちは、というつもりでひょいと頭が動いてしまうのだ。確かにそうだった。わたし、この3年半で会釈という習慣をすっかり無くしてしまったかもしれない。
もうひとつ、日本人は目を合わせない。人のことはこっそりと見ているのだけれど、決して目を合わせて来ない。これだけたくさんの人がいるんだから、ふとした拍子に目が合ってしまうことだってあるわけだけれど、視線はあわてて外れて行く。この視線が避けて行く感覚はとても日本風だ。
フランス人は見る。堂々と見る。自分が相手を見ていることを隠そうともしない。しかも視線を合わせてくる。2秒か3秒、じっと見合ってしまうこともざらにある。そのままフイと視線が別れることもあれば、ふっとお互いの口元が和らいで微笑みあうこともある。買い物に行った先のレジ係の人ともきちんを視線を合わせる。視線を合わせて挨拶してから作業に入る。子どもの学校でもそう。挨拶する時は、必ず相手と視線を合わせる。目が合わないと、逆に「相手にしてもらっていないかも」と心配になったりするのだ。
わずか2時間程度の滞在だったけれど、プチ・ジャポンの雰囲気を存分に味わった。
帰る道々、思ったものだ。
プチ・ジャポンの中ですらともすると違和感を感じてしまったわたし。
生まれも育ちも日本なら、自由になる言葉も日本語しかないという私が、
物心ついた時からフランスに住み、
日本人も日本語も周りにわずかしかない環境に育つ
「国籍と血だけは日本人」のわが息子たちに
いったい日本の何を伝えられるだろうか、
日本人として、何を教えるべきなのだろうか、と。
きちんと頭を下げられるとか、季節の行事を知っているとか、日本語が読み書きできるとか、お箸がちゃんと持てて和食が食べられるとかいったことではなく、もっと根本的な、日本人としての誇りとか心の持ちようとかといった、アイデンティティの芯になるのは何だろう?日本人であるって、どういうこと?
会場に一歩足を踏み入れると、そこはリトル・ジャパン、いやフランスだからプチ・ジャポンであろうか、とにかく雰囲気が全然違うのでびっくり。
清潔で
関係者はきちんと役割分担されているし、
みな親切で
案内表示は丁寧だし
時間通りに進行するし
その時間割も日本らしい細かさで作られているし
久しぶりに日本風の心地良さにすっきりした心持ちになった。ぐるりと会場を一巡りして、すみずみまで目の行き届いた会場に「あぁ、確かにこうだった」と自分の過去を確認する思い。
が、フランス式のどんぶり勘定に慣れてしまったせいか、なんという細かさであろうかとだんだん息苦しくもなってきた。細かい決まり事があるからここまで統制がとれているとも言えるかな?でも、いわゆる“人の良識にまかせます”というような部分が少なくて、ここは〜をする場所です、何時からです、〜はしないで下さい、〜して下さい、と行動のすべてを先読みされて指示を出されている感じがする。う〜ん、これで息苦しいと感じるということは、もう日本の社会には(特にお役所とか学校とか、ひょっとするとアマチュア・オーケストラみたいな趣味の団体ですら)入れないかもしれないな。思い切り“異端者”になってしまうぞ、わたし。
その他にも、あれぇっと驚いた発見がいくつか。
日本人、本当にしょっちゅう頭を下げている。知っている人に会うと挨拶(ぺこっ)会場の担当者もお客さんに向って挨拶(ペこっ、あなたにもぺこっ)、ああそうですか、そうですよねえなどと話の最中にも頭がひょこひょこ動く。
昔々、夫に連れられて初めてポルトガルに行った時、あちらの人に「頭を下げてばっかりいるねぇ」と面白がられたことを思い出した。ありがとう、こんにちは、というつもりでひょいと頭が動いてしまうのだ。確かにそうだった。わたし、この3年半で会釈という習慣をすっかり無くしてしまったかもしれない。
もうひとつ、日本人は目を合わせない。人のことはこっそりと見ているのだけれど、決して目を合わせて来ない。これだけたくさんの人がいるんだから、ふとした拍子に目が合ってしまうことだってあるわけだけれど、視線はあわてて外れて行く。この視線が避けて行く感覚はとても日本風だ。
フランス人は見る。堂々と見る。自分が相手を見ていることを隠そうともしない。しかも視線を合わせてくる。2秒か3秒、じっと見合ってしまうこともざらにある。そのままフイと視線が別れることもあれば、ふっとお互いの口元が和らいで微笑みあうこともある。買い物に行った先のレジ係の人ともきちんを視線を合わせる。視線を合わせて挨拶してから作業に入る。子どもの学校でもそう。挨拶する時は、必ず相手と視線を合わせる。目が合わないと、逆に「相手にしてもらっていないかも」と心配になったりするのだ。
わずか2時間程度の滞在だったけれど、プチ・ジャポンの雰囲気を存分に味わった。
帰る道々、思ったものだ。
プチ・ジャポンの中ですらともすると違和感を感じてしまったわたし。
生まれも育ちも日本なら、自由になる言葉も日本語しかないという私が、
物心ついた時からフランスに住み、
日本人も日本語も周りにわずかしかない環境に育つ
「国籍と血だけは日本人」のわが息子たちに
いったい日本の何を伝えられるだろうか、
日本人として、何を教えるべきなのだろうか、と。
きちんと頭を下げられるとか、季節の行事を知っているとか、日本語が読み書きできるとか、お箸がちゃんと持てて和食が食べられるとかいったことではなく、もっと根本的な、日本人としての誇りとか心の持ちようとかといった、アイデンティティの芯になるのは何だろう?日本人であるって、どういうこと?
by poirier_AAA
| 2010-09-20 20:47
| 言葉と文化のはざま
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