2010年 03月 18日
泣いても鼻の赤くならない方法はないか? |
出産後、自分は変わった、そう感じる女性は結構多いようです。
体型が変わった(これはある意味仕方ないかも)、食べ物の好みが変わった、体質が変わった、などというのも多いですが、何と言っても圧倒的に良く聞くのが、涙腺が弱くなった、というやつです。
わたしもご多分に漏れず、涙腺感応度がものすごく上がりました。映画でもテレビドラマでもドキュメンタリーでも、まあ泣けること泣けること。家の中で夫と一緒に見ている時なら「まあ、大目に見てちょうだい」と勝手に泣いていられますが、困るのは1人で映画館に行った時です。特に、こちらの映画館は映画の本編が終わった途端(つまりエンドクレジットが始まった途端)館内の照明が明るくなってしまうので、とりあえず外に出られるだけの体裁をつくろう暇がないのです。これは困ります。
数日前にも書いた「La Rafle」という映画を観に行くふんぎりがなかなかつかないのも、これが絶対に泣けるだろうと予告編から伝わって来たからです。
何がそんなに泣けるのか? ずばり、子どもです。それから命が無駄になること。幼い子どもが辛い思いをしているのも、子どもを守りたいのに守ってやれずに親が苦しんでいるのも、人の命が粗末に扱われるのも嫌なんです。生命の誕生にかかわったからなんでしょうね。いまどきの設備の整った病院で、プロフェッショナルな医者や助産婦に囲まれて迎えるお産であっても、お産が女性にとって体を張っての大仕事であることはかわりません。そうやって生み出された命が、あっけなく(特に他の人の欲を満たすために)断たれるのを見るのは本当に辛い。
無駄死にさせるために子どもを産む親なんて、どこにもいないんだよ。
涙腺が弱くなると同時に、戦争、戦闘、殺し合い、暴力のシーンも受け付けなくなりました。嫌悪感で気分が悪くなってしまうのです。映画に行く時はあらかじめ予告編を見て、これは最後まで見続けられるだろうかと考えて作品を選びます。でも、そうしてみるとかなりの割合で暴力シーンが出て来るんです。8歳くらいの子どもからという映画でも、普通に戦いが出て来る。武器を取って戦い、相手を痛めつけて満足するの。これは桃太郎が「悪い鬼をこらしめて、もう悪いことはしませんと謝らせました」というレヴェルの話じゃありません。相手を痛めつけ、消すことが目的なんですから。これでは、大人も子どもも容赦のない暴力を見るのに慣れてしまいます。
昨日の夜、テレビで「たそがれ清兵衛」を見ました。明日は上意討ちに出向かなければならないという夜、幼い子どもたちの寝顔をじっと見つめる主人公の姿に、いつものようにぼろぼろ涙がでてくるのを止められなかったわけですが、それでもこの物語に救いがあるかもと思ったのは、殺しに出向く侍もそれを迎える侍も、どちらも相手が案山子じゃなく、命があって日常生活を送る人間だとわかっていたことです。こういう視点は、絶対に持っていなければいけないでしょ。
パリはここ数日とても暖かく、ついに春がやって来た!という感じです。家の窓は大きく開け放たれ、待ちゆく人も少し薄手のコートに着替え、沈丁花が香り、そこここで鳩の求愛シーンが繰り広げられています。嗚呼それなのに、なぜにわたしはここ数日、屁理屈をこねくりまわした文を書いているんだか。今日はちょっと出かけて、頭をからっぽにしてこようと思います。
そういえば、「たそがれ清兵衛」のフランス語タイトルは「Le Samuraï du crépuscule(ル サムライ デュ クレピュスキュル」といいます。黄昏のことをフランス語ではクレピュスキュルというのです。だから、ワーグナーの「神々の黄昏」も「Le Crépuscule des dieux(ル クレピュスキュル デ デュー)」となります。この「クレピュスキュル」という音の感じ、気に入っています。
体型が変わった(これはある意味仕方ないかも)、食べ物の好みが変わった、体質が変わった、などというのも多いですが、何と言っても圧倒的に良く聞くのが、涙腺が弱くなった、というやつです。
わたしもご多分に漏れず、涙腺感応度がものすごく上がりました。映画でもテレビドラマでもドキュメンタリーでも、まあ泣けること泣けること。家の中で夫と一緒に見ている時なら「まあ、大目に見てちょうだい」と勝手に泣いていられますが、困るのは1人で映画館に行った時です。特に、こちらの映画館は映画の本編が終わった途端(つまりエンドクレジットが始まった途端)館内の照明が明るくなってしまうので、とりあえず外に出られるだけの体裁をつくろう暇がないのです。これは困ります。
数日前にも書いた「La Rafle」という映画を観に行くふんぎりがなかなかつかないのも、これが絶対に泣けるだろうと予告編から伝わって来たからです。
何がそんなに泣けるのか? ずばり、子どもです。それから命が無駄になること。幼い子どもが辛い思いをしているのも、子どもを守りたいのに守ってやれずに親が苦しんでいるのも、人の命が粗末に扱われるのも嫌なんです。生命の誕生にかかわったからなんでしょうね。いまどきの設備の整った病院で、プロフェッショナルな医者や助産婦に囲まれて迎えるお産であっても、お産が女性にとって体を張っての大仕事であることはかわりません。そうやって生み出された命が、あっけなく(特に他の人の欲を満たすために)断たれるのを見るのは本当に辛い。
無駄死にさせるために子どもを産む親なんて、どこにもいないんだよ。
涙腺が弱くなると同時に、戦争、戦闘、殺し合い、暴力のシーンも受け付けなくなりました。嫌悪感で気分が悪くなってしまうのです。映画に行く時はあらかじめ予告編を見て、これは最後まで見続けられるだろうかと考えて作品を選びます。でも、そうしてみるとかなりの割合で暴力シーンが出て来るんです。8歳くらいの子どもからという映画でも、普通に戦いが出て来る。武器を取って戦い、相手を痛めつけて満足するの。これは桃太郎が「悪い鬼をこらしめて、もう悪いことはしませんと謝らせました」というレヴェルの話じゃありません。相手を痛めつけ、消すことが目的なんですから。これでは、大人も子どもも容赦のない暴力を見るのに慣れてしまいます。
昨日の夜、テレビで「たそがれ清兵衛」を見ました。明日は上意討ちに出向かなければならないという夜、幼い子どもたちの寝顔をじっと見つめる主人公の姿に、いつものようにぼろぼろ涙がでてくるのを止められなかったわけですが、それでもこの物語に救いがあるかもと思ったのは、殺しに出向く侍もそれを迎える侍も、どちらも相手が案山子じゃなく、命があって日常生活を送る人間だとわかっていたことです。こういう視点は、絶対に持っていなければいけないでしょ。
パリはここ数日とても暖かく、ついに春がやって来た!という感じです。家の窓は大きく開け放たれ、待ちゆく人も少し薄手のコートに着替え、沈丁花が香り、そこここで鳩の求愛シーンが繰り広げられています。嗚呼それなのに、なぜにわたしはここ数日、屁理屈をこねくりまわした文を書いているんだか。今日はちょっと出かけて、頭をからっぽにしてこようと思います。
そういえば、「たそがれ清兵衛」のフランス語タイトルは「Le Samuraï du crépuscule(ル サムライ デュ クレピュスキュル」といいます。黄昏のことをフランス語ではクレピュスキュルというのです。だから、ワーグナーの「神々の黄昏」も「Le Crépuscule des dieux(ル クレピュスキュル デ デュー)」となります。この「クレピュスキュル」という音の感じ、気に入っています。
by poirier_AAA
| 2010-03-18 19:50
| 日々の断片
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