2009年 10月 30日
「オランダの黄金時代」展 |
現在、ピナコテック・ド・パリ(Pinacoteque de Paris) で開催中の「オランダの黄金時代(L'age d'or hollandais)」展に行った。
美術に関する知識はお粗末なもので、オランダ絵画といえばレンブラント、フェルメール、ブリューゲルくらいしか思い浮かばず、肖像画とか緻密な庶民生活の絵が多いとか、そんな印象ばかりしかない。
今回ちょっと真面目に解説文を読んでまわり、わたしの持っていたイメージもあながち間違いというわけではなく、実はポイントをついていることを知った。ようやく導入部分に至った感じ。
オランダ絵画の黄金時代と言われる17世紀は、まだフランス革命も産業革命も起っていない時代。ヨーロッパでは王侯貴族や宗教が絶大な影響力を持っており、当然絵のテーマも身分の高い人や宗教、神話などが中心だった。
ところがオランダは違う。世界に向けて開けた港を持っていたため、貿易によって富が蓄積し、豊かな市民層が出現していたのだ。裕福な市民は個人や家族の肖像画を描かせるようになったし、市民階級でも絵画を購入して自宅に飾れるようになった。
そんなわけで、他の国ではお目にかかれないような市民階級の肖像画、庶民の生活風景、風景画などが多く存在するというわけ。おかげで現代のわたしたちも、17世紀オランダのいきいきとした生活の様子を目にすることができる。
この展覧会を一通りみて思ったのは、「ひかり」が本当に大事な要素だということ。
たとえば静物画。
赤と白の混じったチューリップの花弁で、白い部分が輝くように浮き上がっている。牡蠣の殻の内部が虹色に輝いている。白い磁器が光を反射している。それが淡い光の存在を感じさせる。
レンブラントの「聖ペテロの否認」。
画面中央にある蝋燭の明かりは、それを持つ女性の手のひらによって遮られている。ろうそくの明かりをすかして赤く透き通って見える女性の手。逆に遮るものなく明かりに照らし出されたペテロの顔。淡く浮かび上がる室内。絵の中にある光によって絵を見せてもらっているような錯覚に陥る。
絵を描くときは北向きの部屋がいい、とどこかで誰かがいっていたような記憶があるけれど、今日のような絵を見ていると本当にそうだなぁという気がする。快晴の太陽光線ががんがん入ってくるような場所だと色は平面的になりがちだ。北側の窓から入る淡い明かりや蝋燭のあかりは、色の存在をより意識させる。色はひかりだなぁと思う。まさに陰影礼賛の世界。
フェルメールの「恋文」もゆっくり見ることができたし、いくつかとても気に入った絵を見つけることもできて満足した。
ところでパリで美術館にいくといろいろ気づくことがある。
一つは、解説文を丁寧に読んでから絵を見始める人がすごく多いこと。何の絵が飾ってあるんだろうと思って近づくと解説文だったりする。
2人組で来て、絵を見ながら感想を話し合っている人たちが多いこと。知らない人に話しかけて語り合ってしまう人たちもいる。
子ども向けの解説付きツアーがあること。今回は小学生くらいの子をフレンドリーなお姉さんがつれてまわり、主要作品の前で丁寧に絵の説明をしているところに出くわした。子ども向けだけれどちゃんとポイントを押さえていて素晴らしい。小さいときから本物の絵を目にすることができるなんて素敵だ。
美術に関する知識はお粗末なもので、オランダ絵画といえばレンブラント、フェルメール、ブリューゲルくらいしか思い浮かばず、肖像画とか緻密な庶民生活の絵が多いとか、そんな印象ばかりしかない。
今回ちょっと真面目に解説文を読んでまわり、わたしの持っていたイメージもあながち間違いというわけではなく、実はポイントをついていることを知った。ようやく導入部分に至った感じ。
オランダ絵画の黄金時代と言われる17世紀は、まだフランス革命も産業革命も起っていない時代。ヨーロッパでは王侯貴族や宗教が絶大な影響力を持っており、当然絵のテーマも身分の高い人や宗教、神話などが中心だった。
ところがオランダは違う。世界に向けて開けた港を持っていたため、貿易によって富が蓄積し、豊かな市民層が出現していたのだ。裕福な市民は個人や家族の肖像画を描かせるようになったし、市民階級でも絵画を購入して自宅に飾れるようになった。
そんなわけで、他の国ではお目にかかれないような市民階級の肖像画、庶民の生活風景、風景画などが多く存在するというわけ。おかげで現代のわたしたちも、17世紀オランダのいきいきとした生活の様子を目にすることができる。
この展覧会を一通りみて思ったのは、「ひかり」が本当に大事な要素だということ。
たとえば静物画。
赤と白の混じったチューリップの花弁で、白い部分が輝くように浮き上がっている。牡蠣の殻の内部が虹色に輝いている。白い磁器が光を反射している。それが淡い光の存在を感じさせる。
レンブラントの「聖ペテロの否認」。
画面中央にある蝋燭の明かりは、それを持つ女性の手のひらによって遮られている。ろうそくの明かりをすかして赤く透き通って見える女性の手。逆に遮るものなく明かりに照らし出されたペテロの顔。淡く浮かび上がる室内。絵の中にある光によって絵を見せてもらっているような錯覚に陥る。
絵を描くときは北向きの部屋がいい、とどこかで誰かがいっていたような記憶があるけれど、今日のような絵を見ていると本当にそうだなぁという気がする。快晴の太陽光線ががんがん入ってくるような場所だと色は平面的になりがちだ。北側の窓から入る淡い明かりや蝋燭のあかりは、色の存在をより意識させる。色はひかりだなぁと思う。まさに陰影礼賛の世界。
フェルメールの「恋文」もゆっくり見ることができたし、いくつかとても気に入った絵を見つけることもできて満足した。
ところでパリで美術館にいくといろいろ気づくことがある。
一つは、解説文を丁寧に読んでから絵を見始める人がすごく多いこと。何の絵が飾ってあるんだろうと思って近づくと解説文だったりする。
2人組で来て、絵を見ながら感想を話し合っている人たちが多いこと。知らない人に話しかけて語り合ってしまう人たちもいる。
子ども向けの解説付きツアーがあること。今回は小学生くらいの子をフレンドリーなお姉さんがつれてまわり、主要作品の前で丁寧に絵の説明をしているところに出くわした。子ども向けだけれどちゃんとポイントを押さえていて素晴らしい。小さいときから本物の絵を目にすることができるなんて素敵だ。
by poirier_AAA
| 2009-10-30 10:38
| 観る・鑑賞する
|
Comments(2)
Commented
at 2020-09-11 19:09
x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented
by
poirier_AAA at 2020-09-13 00:03
> kagikome さん、こんにちは。
日本に住んでいるころは、正直言ってフェルメールはあまりピンときませんでした。こちらに来てからですね、すごく魅力があると感じるようになったのは。フランスにいると「光」と「色」
に敏感になるような気がします。そしてアムステルダムはもっと北にありますから、もっともっと光に敏感でしょうね。あちらの画家の絵は画面の暗い絵が多いのですが、そう感じるのはわたしの目がたくさんの光に慣れているからなんだと思います。
日本に住んでいるころは、正直言ってフェルメールはあまりピンときませんでした。こちらに来てからですね、すごく魅力があると感じるようになったのは。フランスにいると「光」と「色」
に敏感になるような気がします。そしてアムステルダムはもっと北にありますから、もっともっと光に敏感でしょうね。あちらの画家の絵は画面の暗い絵が多いのですが、そう感じるのはわたしの目がたくさんの光に慣れているからなんだと思います。
0