2024年 09月 07日
さよなら、お義母さん |
ポルトガルの義母が亡くなった。
いつまでも元気でいてほしいと書いてアップしたばかりだった。
わたしたちはポルトガルに舞い戻り、葬儀を済ませてパリに戻ってきた。
享年84歳。8月の半ばに誕生日を迎え、家族や親戚や友人が揃ってお祝いしたところだった。
わたしたちが、いつものごとく義母が丹精した農作物を山のように車に積んでパリに戻ってきたのが先週の金曜日。疲れ果ててその日は「無事に着いたよ」と電話で連絡しただけで寝てしまい、翌土曜日は荷物の片付けをしつつ貰ってきた野菜を使った料理を作り、夜はその野菜料理に持たせてもらった炭焼きの鶏肉を添えて食べた。週明けはもう普通の生活に戻るし、これが本当のヴァカンスの最後だからと、頂き物のちょっといいロゼワインをあけることにした。食べ物が美味しかったのがよかったのか、ヴァカンス気分で肩の力が抜けていたのか、いつになく酒が進んでめずらしいことに夫と2人でまるまる1本ワインを飲みきってしまった。
うわ〜今日は飲んだね、ちょっと酔っ払っちゃったよね。2人ともいつになく饒舌で、夕食が終わった後も食卓に残ってずっと話をしていた。この夏も無事に行って来られてよかった、義両親がいつもと同じ調子で元気でやっていてよかった、あと2年でダイヤモンド婚式だからお祝いできるといい。わたしは父も母も亡くして、実家も持ち続けられるかどうか定かではなくて、それがすごく悲しい。だからこそ、義両親が元気で笑って動いていてくれること、ポルトガルの家がいつもと変わらないことが嬉しく、そのありがたさが身にしみる。2人ともいつまでも元気でいてくれるといい。わたしたちはこんなふうに親によくしてもらって、本当にしあわせだよね。そんなことを話しながら2人で幸せにすごした夏を振り返っていた。
あの夜の幸福感に満ちた時間のことを、わたしたちは一生忘れないと思う。
日曜日の午後、義母の様子がおかしいことがわかった。義父は何もできないので慌てて近所の人を頼り救急車を呼んでもらって病院に運んだ。その時点ではまだ義母の意識はしっかりしていたという。とりあえず様子見だろうと夕食の支度をしているところに、夫が電話を片手に泣きながら飛び込んできた。ママンが死んでしまった!
夫は翌月曜日の早朝の便でポルトガルに発った。わたしたち3人は、月曜日の息子たちの新学期初日を済ませてから夫を追って発った。新学期早々でいろいろ手続きや説明などが重なる時期なので息子たちは行かれなくても仕方ないと思ったけれど、彼らが主張した、絶対に行く、大事な家族なのにその別れに参加できないのはもうイヤだ。
残された5人でぼそぼそとテイクアウトしてきた食事を口に押し込んでいるとき、義父が言った、家がカラッポになってしまった。家はあっても義父はいても、義母がひとりいなくなっただけで、もういつもの家ではなかった。
毎日世話する人のいなくなった畑は、3日4日もすると残された人間と同じように目に見えて元気が無くなった。ここまで彼女が丹精してきたものを無駄にしちゃダメよ!わたしがやるから!隣家のリタが鼻息も荒くやってきて、しなびていた畑に手を入れてくれた。
葬儀の日は、前日にびゅうびゅうと吹き荒れた風もピタリとやんで爽やかな夏の終わりの青空が広がった。教会は別れに駆けつけた人たちでいっぱいだった。夫と並んで棺と一緒に教会のドアをくぐったとき、席が足りないほど集まった人たちが一斉に入り口のわたしたちの方を振り向いた。皆が神妙な顔をしているのでなければ一瞬お祝い事か?と思うほどであった。義母がいたら、それぞれの人と再会を喜びながら延々と延々と会話を弾ませたことだろう。
8月生まれであることとは関係ないだろうけれど、8月の太陽みたいに熱いほどにあたたかくて、8月の向日葵みたいにぱぁっと明るくて、いろんな苦労を抱えて働き続けて生きた人なのに向日葵の黄色みたいにいつも幸せな様子でいる人だった。わたしにとっては実の母以上に母親を感じさせてくれる人でもあった。生きる背中を見せてくれた人だった。
ぽっかり空いた穴があまりにも大きくて、1週間が経とうとしている今もまだ混乱している。
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by poirier_AAA
| 2024-09-07 16:08
| 思い出す
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