2025年 11月 02日
あの日のこと |
10時ごろに病室に行くと、友人は眠っていた。
眠り続けていた前日と様子は変わっていないように見えた。そっと掛け布団の下の手を握ってみたら、前日までは発熱しているような熱さだったのがひんやりしている。手首の脈もほとんど触れないくらいに弱い。
今日かもしれないと思った。
閉じた瞼の下でときどき眼球が動く。眠り続けていても意識がないように見えても、聴覚は最後まで残っているので声をかけつづけるといいとどこかで読んだことを思い出す。といって、返事のない相手にむかって話し続ける自信もなくて、枕元のテーブルに置いてあった本を読み上げることにした。柚月裕子の『盤上の向日葵』。
あんなに本が好きだった人なのに、夏以降は読むことにも本の内容にも一切興味を示さなくなっていた。それに元気な頃には「朗読なんてかったるいだけ」と言っていたものだ。
ごめん。朗読が嫌いなのはよく知ってるけど。いまは小説なんて興味ないかもしれないけど。わたしの声を聞くんだと思って聞いてよ。
一言断ってから読み始めた。
読み始めて数ページ、刑事二人が山形は天童の竜昇戦会場に着いたところで、呼吸音の変化に気がつく。
Fさん、Fさん、聞こえる?
手を握って呼びかけると、ずっと瞑られたままだった目が開いた。
Fさん、Fさん、聞こえる?
わたし、ここにいるよ。
見える?今日はいいお天気なんだよ。
わたしねぇ、明日からまたポルトガルに行くの。
今回はサツマイモとアボカド持ってくるから。あ、マルメロもあるかな。
マルメロでジャムを作って持っていくから、Fさんはお茶を淹れてよ。
それでまたゆっくり話そう。
わたしたちが話していると、きっとまた猫がまとわりついてくるね。
大人しくて本当にいい猫なんだよね。
ねぇ、これまで本当に楽しかったね。
またいつかどこかで、ゆっくり話そうねぇ。
こらえきれず途中から涙を流しながら、それでも無我夢中で話しかけた。
旅立つところよ。声をかけ続けて。
ブザーで呼んでいた看護士が傍に来て、わたしの耳に囁いた。
止まっては戻るを繰り返した呼吸が、何回めかで戻らなくなった。
友人はするりと旅立ってしまった。
あの日あの時。
なんであのタイミングで本なんか読み聞かせようと思いつく?
それに、見送ってくれるなら泣き顔でなく好い笑顔を見せて欲しかったわ。
友人が元気だったら言いそうな言葉がポンポン浮かんでくる。
いやもうね、文句でもお叱りでもなんでも受けましょう。
夢に出てきてくれたって構わない。熱烈大歓迎だ。
重く不自由な肉体を脱ぎ捨てて軽やかに笑っているであろう友人をおもう。
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by poirier_AAA
| 2025-11-02 21:25
| 思い出す
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