2015年 01月 05日
言葉の定義 |
休暇の最後に手つかずの宿題を片付ける、
という悪癖(?)は洋の東西を問わず存在するようで、
週明けから学校が始まるという土曜日、子どもが慌てて宿題をやり始めた。
わたしは息子Bの歴史用語の暗記を手伝わされた。
フランスの歴史の勉強を見ていて面白いな、と思うのは、
まず言葉の定義から入ることだ。
歴史の授業が始まったとき、まず子どもたちが覚えたのは
「歴史」とは何か、という定義だった。
歴史は、人間が文字を発明した時から始まる。
文字を持たない時代ももちろん長かった。
でもそれは歴史以前の話で、つまり先史時代(préhistoire)なのだ。
Bが習っているのは先史時代。
狩りや採取中心の移動生活をしていた人間も、
農業が始まったことで定住生活に入る。
食物をある程度自分で賄えるようになったことで余裕ができ、
鍛冶や織、陶器などを専門とする人が出て来る。
人々がかたまって住むことで村ができ、
村を守るための守備(fortification:砦、要塞)が作られる。
やがて、国が出来る。
では「国:un état」の定義は何か。
une population(住民)で、
sur un territoire(一区画のテリトリー)に存在しており、
dirigée par une personne ou un groupe de personnes
(1人、またはグループによって率いられている)
こういう定義を読むと、ものすごくスカッとする。
国と言うのは何をおいてもまず「人の集団」の名称だとわかるから。
一事が万事この調子で、
例えば農業(l'agriculture)なら、それはculture である、と言ってのける。
で、そのあとで du sol (地面の)と説明する。
商売(le commerce)は交換(l'échange)である。
ただし、交換するのは物とお金。
同じく交換(l'échange)を意味する言葉に le troc というのがあるけれど、
これは交換内容が違って、物と物、つまり物々交換になる。
子ども用にわかりやすく書いてある、ということもあると思う。
でも、こんなふうに言葉の定義がなされているのは爽快だ。
小さい頃から言葉を定義することに慣れているからかもしれない。
フランスで人と話していて、
ちょっと待って、その言葉、どういう意味で使っているの?
と、話の途中で問いかけても、結構みんな普通に真面目に答えてくれる。
あなたが言う、その「優しい」ってどういうこと?
などと質問が抽象的な内容に及んだ時でも、そんなにたじろぐ人はいない。
「優しさ」とは何か、というような話にごく自然に進んで行く。
わたしの頭は日本語で出来ているけれど、
こういう部分ではフランス語ができて良かったな、と思う。
(もっとできるようになったら、もっといいのに)
AはBである。で、そのBというのはほにゃらら、ほにゃららである
と思考する人と
Aは、ほにゃらら、ほにゃらら、ほにゃほにゃのBである
と思考する人とでは、何かが決定的に違ってくるような気がする。
で、その中間地点にいるわたしみたいなタイプはどうなんだろう?
という悪癖(?)は洋の東西を問わず存在するようで、
週明けから学校が始まるという土曜日、子どもが慌てて宿題をやり始めた。
わたしは息子Bの歴史用語の暗記を手伝わされた。
フランスの歴史の勉強を見ていて面白いな、と思うのは、
まず言葉の定義から入ることだ。
歴史の授業が始まったとき、まず子どもたちが覚えたのは
「歴史」とは何か、という定義だった。
歴史は、人間が文字を発明した時から始まる。
文字を持たない時代ももちろん長かった。
でもそれは歴史以前の話で、つまり先史時代(préhistoire)なのだ。
Bが習っているのは先史時代。
狩りや採取中心の移動生活をしていた人間も、
農業が始まったことで定住生活に入る。
食物をある程度自分で賄えるようになったことで余裕ができ、
鍛冶や織、陶器などを専門とする人が出て来る。
人々がかたまって住むことで村ができ、
村を守るための守備(fortification:砦、要塞)が作られる。
やがて、国が出来る。
では「国:un état」の定義は何か。
une population(住民)で、
sur un territoire(一区画のテリトリー)に存在しており、
dirigée par une personne ou un groupe de personnes
(1人、またはグループによって率いられている)
こういう定義を読むと、ものすごくスカッとする。
国と言うのは何をおいてもまず「人の集団」の名称だとわかるから。
一事が万事この調子で、
例えば農業(l'agriculture)なら、それはculture である、と言ってのける。
で、そのあとで du sol (地面の)と説明する。
商売(le commerce)は交換(l'échange)である。
ただし、交換するのは物とお金。
同じく交換(l'échange)を意味する言葉に le troc というのがあるけれど、
これは交換内容が違って、物と物、つまり物々交換になる。
子ども用にわかりやすく書いてある、ということもあると思う。
でも、こんなふうに言葉の定義がなされているのは爽快だ。
小さい頃から言葉を定義することに慣れているからかもしれない。
フランスで人と話していて、
ちょっと待って、その言葉、どういう意味で使っているの?
と、話の途中で問いかけても、結構みんな普通に真面目に答えてくれる。
あなたが言う、その「優しい」ってどういうこと?
などと質問が抽象的な内容に及んだ時でも、そんなにたじろぐ人はいない。
「優しさ」とは何か、というような話にごく自然に進んで行く。
わたしの頭は日本語で出来ているけれど、
こういう部分ではフランス語ができて良かったな、と思う。
(もっとできるようになったら、もっといいのに)
AはBである。で、そのBというのはほにゃらら、ほにゃららである
と思考する人と
Aは、ほにゃらら、ほにゃらら、ほにゃほにゃのBである
と思考する人とでは、何かが決定的に違ってくるような気がする。
で、その中間地点にいるわたしみたいなタイプはどうなんだろう?
by poirier_AAA
| 2015-01-05 23:14
| 言葉と文化のはざま
|
Comments(17)
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Mtonosama at 2015-01-06 09:30
農業はcultureであると知ったのは高校生の頃だったと思います。
教育実習の時、「歴史って何?」という質問を(世界史を教えました)生徒たちに出したら、あとで指導教官にしかられました。
日本ってなんにでも定式があるようです。
言葉の定義から入るってフランスに限らず、ヨーロッパではそうなのでしょうね。
教育実習の時、「歴史って何?」という質問を(世界史を教えました)生徒たちに出したら、あとで指導教官にしかられました。
日本ってなんにでも定式があるようです。
言葉の定義から入るってフランスに限らず、ヨーロッパではそうなのでしょうね。
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saheizi-inokori at 2015-01-06 10:04
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poirier_AAA at 2015-01-06 18:44
>Mtonosamaさん、こんにちは。
とのさんは歴史で教育実習されたんですね!
世界史の先生か〜いいですねぇ。歴史の面白さに目覚めた今、世界史の先生なんて、まるで手の届かない高みで輝く星のように感じられます。すごい、すごいなぁ。
「歴史って何?」と聞いたら駄目なんですか?ヘンなの。余計なことを考えずに、ただただ年号と出来事を覚えていけばいい、とでもいうのでしょうか。たしかに受験を考えると、興味を深めるよりも現実的な試験対策の方が優先するのかもしれませんが。残念ですね。歴史って面白いのに。机の上の勉強だけじゃ済まない大事なことなのに。
とのさんは歴史で教育実習されたんですね!
世界史の先生か〜いいですねぇ。歴史の面白さに目覚めた今、世界史の先生なんて、まるで手の届かない高みで輝く星のように感じられます。すごい、すごいなぁ。
「歴史って何?」と聞いたら駄目なんですか?ヘンなの。余計なことを考えずに、ただただ年号と出来事を覚えていけばいい、とでもいうのでしょうか。たしかに受験を考えると、興味を深めるよりも現実的な試験対策の方が優先するのかもしれませんが。残念ですね。歴史って面白いのに。机の上の勉強だけじゃ済まない大事なことなのに。
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poirier_AAA at 2015-01-06 18:55
>saheiziさん、こんにちは。
少し前「美しい国」と首相が言いましたよね。あれが訳のわからない言葉の最たるものだと思っています。あれをフランス語に訳しても、チンプンカンプン、それで何が言いたいわけ?と全員に言われるでしょう。それくらい定義がまったくわからない言葉だったのに、日本では「美しい日本」という響きに酔っている人たちすらいるように見えました。意味の曖昧さを追及しようという世論も目立ちませんでした。
日本の今の危うさの元凶は、ずっと言葉の定義を曖昧にし続けて来た結果、社会が表立って「それはどう言う意味か」「○○とは何か」ときちんと考えないで来た結果ではないかと思うほどです。
少し前「美しい国」と首相が言いましたよね。あれが訳のわからない言葉の最たるものだと思っています。あれをフランス語に訳しても、チンプンカンプン、それで何が言いたいわけ?と全員に言われるでしょう。それくらい定義がまったくわからない言葉だったのに、日本では「美しい日本」という響きに酔っている人たちすらいるように見えました。意味の曖昧さを追及しようという世論も目立ちませんでした。
日本の今の危うさの元凶は、ずっと言葉の定義を曖昧にし続けて来た結果、社会が表立って「それはどう言う意味か」「○○とは何か」ときちんと考えないで来た結果ではないかと思うほどです。
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cazorla at 2015-01-07 03:01
確か 万博のとき(大阪の)だと思うのですが モットーが人類の調和と進歩として その時 フランスから 調和は横線というか現地店のホライゾンにある言葉で進歩は 現在を出発点にして z線上にあるのだから このふたつのことばを同じばしょにおくのは不適当と言われて 日本側は戸惑ったというのをよんだことがあります。
スローガン なんとなく気持ちでうけてします。
たぶん 言霊文化だから それを感じられたいにしえは それはそれでよかったのかもしれないと思います。
音楽も かつて色が見えていた時代があった。
でも だんだんと見えなくなって 調和を論理的にしていく必要があって。
できれば なんでも見えて感じてわかっていた古代の人になりたい そう思ってシュタイナーは教育を考えたのかなと思います。
ああ とりとめもないですね。
この記事を読んでいろんなこと
たとえば ロランバルトのことなんかも書きたい
読み直したい。
頭をリフレッシュさせてくださる記事。ありがとう
スローガン なんとなく気持ちでうけてします。
たぶん 言霊文化だから それを感じられたいにしえは それはそれでよかったのかもしれないと思います。
音楽も かつて色が見えていた時代があった。
でも だんだんと見えなくなって 調和を論理的にしていく必要があって。
できれば なんでも見えて感じてわかっていた古代の人になりたい そう思ってシュタイナーは教育を考えたのかなと思います。
ああ とりとめもないですね。
この記事を読んでいろんなこと
たとえば ロランバルトのことなんかも書きたい
読み直したい。
頭をリフレッシュさせてくださる記事。ありがとう
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poirier_AAA at 2015-01-07 18:30
>cazorlaさん、こんにちは。
あぁ、確かに。調和と進歩って美しく聞こえるけれど、実際は矛盾する言葉ですよね。調和はそこにあるもののハーモニーを追及することで、進歩はハーモニーなんか気にも止めない、既存の価値を滅茶苦茶に打ち崩してでも前進しないではいられないという荒々しい動きなのだもの。真剣に考えれば考えるほど困ってしまうでしょう。
言魂って、昔は好きな言葉だったけれど今は敬遠しています。思いつきで発せられた軽い言葉に魂が宿るわけなんかないだろうと思っているので。
本当の名を明かすことがものすごく大きな意味を持っていた時代もありましたよね。そういう時代なら、きっと言葉にも魂が宿っていただろうと思うのです。そうでなくても、論理的であるかないかは別として、発した言葉を全部自分が背負う覚悟があるかどうかで言葉の重さは全然違って来るでしょう。言葉は、西洋でも東洋でも重いものだと思うのです。
ロラン・バルトのことは、ほとんど何も知りません。著作の朗読なら聞いたことがあるけれど、言葉が頭に引っ掛かりませんでした。それを、カソルラさんはどう見ていらっしゃるのだろう? ぜひ今度話を聞かせて下さい。
あぁ、確かに。調和と進歩って美しく聞こえるけれど、実際は矛盾する言葉ですよね。調和はそこにあるもののハーモニーを追及することで、進歩はハーモニーなんか気にも止めない、既存の価値を滅茶苦茶に打ち崩してでも前進しないではいられないという荒々しい動きなのだもの。真剣に考えれば考えるほど困ってしまうでしょう。
言魂って、昔は好きな言葉だったけれど今は敬遠しています。思いつきで発せられた軽い言葉に魂が宿るわけなんかないだろうと思っているので。
本当の名を明かすことがものすごく大きな意味を持っていた時代もありましたよね。そういう時代なら、きっと言葉にも魂が宿っていただろうと思うのです。そうでなくても、論理的であるかないかは別として、発した言葉を全部自分が背負う覚悟があるかどうかで言葉の重さは全然違って来るでしょう。言葉は、西洋でも東洋でも重いものだと思うのです。
ロラン・バルトのことは、ほとんど何も知りません。著作の朗読なら聞いたことがあるけれど、言葉が頭に引っ掛かりませんでした。それを、カソルラさんはどう見ていらっしゃるのだろう? ぜひ今度話を聞かせて下さい。
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cazorla at 2015-01-07 20:21
ロランバルトが存在するフランスという文化。
うまく説明できないんですが
なんといってもフランス語ができないんで
でも ロランバルトのもじりが多い。
あんなものをもじる文化がすごいと思う。
たとえば日本なら吉本隆明のもじりが存在するかと。
大島渚の映画の題名 エイズ撲滅ポスター など。
フランス語ができたら もっとできるのに。
そういえば トリュフォーの映画には スペインのコメディのパロディというか 言葉遊びがあるというのを読んで ふつうは パロって コメディになるのに その反対。
思うのだけど 思いつきで発せられた言葉にもことだまがあるから危険なんではないかと思うんです。 言葉だけが 人間をおいてけぼりにして 歩き出す。
かつて 音の色が見えた時代があった。 その時の音楽。
今は見えない。 あるけど見えない。
それはことだまも同じであるけど見えない。
まずことばありき というのは真実だと思います。
それは 量子力学が 発明ではなく すでに存在する真実を 取り出すことだ というのと同じで。
基本的に 梨の木さんのおっしゃってることに全面的にうなずいております。
うまく説明できないんですが
なんといってもフランス語ができないんで
でも ロランバルトのもじりが多い。
あんなものをもじる文化がすごいと思う。
たとえば日本なら吉本隆明のもじりが存在するかと。
大島渚の映画の題名 エイズ撲滅ポスター など。
フランス語ができたら もっとできるのに。
そういえば トリュフォーの映画には スペインのコメディのパロディというか 言葉遊びがあるというのを読んで ふつうは パロって コメディになるのに その反対。
思うのだけど 思いつきで発せられた言葉にもことだまがあるから危険なんではないかと思うんです。 言葉だけが 人間をおいてけぼりにして 歩き出す。
かつて 音の色が見えた時代があった。 その時の音楽。
今は見えない。 あるけど見えない。
それはことだまも同じであるけど見えない。
まずことばありき というのは真実だと思います。
それは 量子力学が 発明ではなく すでに存在する真実を 取り出すことだ というのと同じで。
基本的に 梨の木さんのおっしゃってることに全面的にうなずいております。
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poirier_AAA at 2015-01-09 20:11
>cazorlaさん、こんにちは。
そうだ、どんな言葉にも魂があるから不用意な言葉が危険なんですね。まったくその通りだと思います。自分が酷い言葉をつかったら、それだけの反動が自分にも跳ね返って来る。それを知らずに使う人たちが多すぎるのがイヤなのです。
ロラン・バルト、いろいろ調べてみたら、とても面白そうなことをしている。いつか絶対にきちんと読んでみます。
でも、話がずれるかもしれないけれど、もじるとかパロディにする感覚って、風刺画と通じるところがあるのではないでしょうか? パロディは相手を神格化しすぎたらできないことで、相手のパテティックな部分を敢えて剥ぎ取ろうしたり、パテティックさを笑ってみようと挑むのが風刺画なのでは?
ちょっと頭が混乱していて、まともな議論ができない状態なのですけど、表現の自由とは何かと、ずっと考えています。
そうだ、どんな言葉にも魂があるから不用意な言葉が危険なんですね。まったくその通りだと思います。自分が酷い言葉をつかったら、それだけの反動が自分にも跳ね返って来る。それを知らずに使う人たちが多すぎるのがイヤなのです。
ロラン・バルト、いろいろ調べてみたら、とても面白そうなことをしている。いつか絶対にきちんと読んでみます。
でも、話がずれるかもしれないけれど、もじるとかパロディにする感覚って、風刺画と通じるところがあるのではないでしょうか? パロディは相手を神格化しすぎたらできないことで、相手のパテティックな部分を敢えて剥ぎ取ろうしたり、パテティックさを笑ってみようと挑むのが風刺画なのでは?
ちょっと頭が混乱していて、まともな議論ができない状態なのですけど、表現の自由とは何かと、ずっと考えています。
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cazorla at 2015-01-10 20:08
風刺は 相手をちゃんと理解しないとできないと思います。
理解すること。 そして その風刺が どこにたどり着くか 考えること。 前提がまず大事なんだと思います。 どういう前提で この風刺をするか。 たとえば 化学の実験でも 前提なしに実験したら どうしようもないですよね。
私は カトリックを風刺するのも たとえば法王がいのりながら キリストのあれを口に入れてる漫画とか 好きではないけど 社会的には受け入れられる。 それはカトリックが偶像信仰だから。でも 偶像信仰禁止の宗教で風刺画を描いたら。。
それと あと イラク戦争の問題もあります。 あれは誰が始めたのでしょう? 始める理由は?で その時 米兵が イラク兵を裸にして 二人を絡めさせた。 ホモみたいに。 そして写真を撮った。 モハメドも同じことさせてる風刺画。 あれって 目的はなに? て 思います。風刺画とイラクのは根が一緒なんじゃないかと。
理解すること。 そして その風刺が どこにたどり着くか 考えること。 前提がまず大事なんだと思います。 どういう前提で この風刺をするか。 たとえば 化学の実験でも 前提なしに実験したら どうしようもないですよね。
私は カトリックを風刺するのも たとえば法王がいのりながら キリストのあれを口に入れてる漫画とか 好きではないけど 社会的には受け入れられる。 それはカトリックが偶像信仰だから。でも 偶像信仰禁止の宗教で風刺画を描いたら。。
それと あと イラク戦争の問題もあります。 あれは誰が始めたのでしょう? 始める理由は?で その時 米兵が イラク兵を裸にして 二人を絡めさせた。 ホモみたいに。 そして写真を撮った。 モハメドも同じことさせてる風刺画。 あれって 目的はなに? て 思います。風刺画とイラクのは根が一緒なんじゃないかと。
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poirier_AAA at 2015-01-12 18:35
>cazorlaさん、こんにちは。
風刺は、する方も見る方も物事にきちんと通じていないと成り立たない世界です。この風刺画家たちが無知からあれを描いていると思いますか?彼らは確信犯です。
わたしは彼らの風刺画は品がいいとも面白いとも思っていないし、フランス人の多くも同じように考えています(だからあの新聞は売れていなかったのです)。けれども彼らの一人が昔インタビューで語っていた言葉「われわれは総てのイデオロギーに挑む。宗教もまた(われわれにとっては)イデオロギーの1つにしかすぎない」を聞いたとき、あぁそういう考え方もあるのかと思いました。
今回のことで、彼らを表現の自由の殉教者のように考える人たちもいるのです(パンテオンに葬れとか)。でも、それこそ彼らが生きていたら強烈に皮肉ったに違いないことです。イデオロギーを皮肉ることを信条にしていた自分たちがイデオロギーのご神体になるわけですから。
風刺画はテロの言い訳にしかすぎません。風刺画がなくなったとしてもテロは他の理由を捜すでしょう。争いを起こしたくてたまらない人たちが、西洋にもイスラムの世界にもいる、その挑発に乗ってはいけないと思います。
風刺は、する方も見る方も物事にきちんと通じていないと成り立たない世界です。この風刺画家たちが無知からあれを描いていると思いますか?彼らは確信犯です。
わたしは彼らの風刺画は品がいいとも面白いとも思っていないし、フランス人の多くも同じように考えています(だからあの新聞は売れていなかったのです)。けれども彼らの一人が昔インタビューで語っていた言葉「われわれは総てのイデオロギーに挑む。宗教もまた(われわれにとっては)イデオロギーの1つにしかすぎない」を聞いたとき、あぁそういう考え方もあるのかと思いました。
今回のことで、彼らを表現の自由の殉教者のように考える人たちもいるのです(パンテオンに葬れとか)。でも、それこそ彼らが生きていたら強烈に皮肉ったに違いないことです。イデオロギーを皮肉ることを信条にしていた自分たちがイデオロギーのご神体になるわけですから。
風刺画はテロの言い訳にしかすぎません。風刺画がなくなったとしてもテロは他の理由を捜すでしょう。争いを起こしたくてたまらない人たちが、西洋にもイスラムの世界にもいる、その挑発に乗ってはいけないと思います。
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cazorla at 2015-01-13 08:04
もちろん 確信犯です。 でもそれがどこに導いていくか そしてそれが 言論の自由なのか。 自由には責任があります。
それが今回の事件ではかけている。 で デンマークの時は斧だった。 自分が死ぬのは 考えてなかった。 それとも 死ぬ覚悟だった?
それが今回の事件ではかけている。 で デンマークの時は斧だった。 自分が死ぬのは 考えてなかった。 それとも 死ぬ覚悟だった?
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poirier_AAA at 2015-01-13 17:43
>cazorlaさん、こんにちは。
カソルラさんの言わんとしていることはだいたいわかります。
でも、テロの話と表現の自由をどこまで許すかということは厳密にわけて考えなければいけない。暴力を許さないことと、言葉による暴力をどう制限するかというのは別な話です。
で、あらためて言論の自由ということでいうと、例えば最新号のシャルリーの風刺画を今朝見たとき、正直言ってうんざりしました。あれだけのことを引き起こしておいて、まだこれを続けるか、と思って。正直言って不快です。
ただ、制限しろと言うのは簡単なのですが、どこで線を引くかというのがものすごく難しい。カソルラさんは宗教は他の問題とは別物だと言う。でも、みなが同じように考えるとは限りません。良心とか責任感とかいったハートの問題にすると、今度は基準にならない。宗教的なタブーはどの宗教でも抱えているわけで、ではどの宗教のどれを許してどれを許さないか、これもものすごくデリケートな問題です。
で、自由という権利は規制をかけるより、規制を緩める方がずっと難しい。シャルリーは何度も裁判沙汰を起こしていますが、それでも完全に活動停止を言い渡されずにいるのは、フランスと言う国が、100滴の毒をもられたとしても1滴の真実を浮かび上がらせる可能性があるものは排除すべきではない、と考えているからかもしれないと想像しています。
カソルラさんの言わんとしていることはだいたいわかります。
でも、テロの話と表現の自由をどこまで許すかということは厳密にわけて考えなければいけない。暴力を許さないことと、言葉による暴力をどう制限するかというのは別な話です。
で、あらためて言論の自由ということでいうと、例えば最新号のシャルリーの風刺画を今朝見たとき、正直言ってうんざりしました。あれだけのことを引き起こしておいて、まだこれを続けるか、と思って。正直言って不快です。
ただ、制限しろと言うのは簡単なのですが、どこで線を引くかというのがものすごく難しい。カソルラさんは宗教は他の問題とは別物だと言う。でも、みなが同じように考えるとは限りません。良心とか責任感とかいったハートの問題にすると、今度は基準にならない。宗教的なタブーはどの宗教でも抱えているわけで、ではどの宗教のどれを許してどれを許さないか、これもものすごくデリケートな問題です。
で、自由という権利は規制をかけるより、規制を緩める方がずっと難しい。シャルリーは何度も裁判沙汰を起こしていますが、それでも完全に活動停止を言い渡されずにいるのは、フランスと言う国が、100滴の毒をもられたとしても1滴の真実を浮かび上がらせる可能性があるものは排除すべきではない、と考えているからかもしれないと想像しています。
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cazorla at 2015-01-14 03:27
ハートの問題ではないです。 前提はなにか。
行為の前提。
行為の前提。
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poirier_AAA at 2015-01-15 00:14
>cazorlaさん、こんにちは。
行為の前提? 前提によって結果の評価も変わるということですか。
この件に関してわたしが知っているのは、前出の「すべてのイデオロギーに挑む。宗教もイデオロギーに過ぎない」という言葉と、また別な人の言った「跪くくらいなら立ったまま死ぬ」という言葉だけです。
行為の前提? 前提によって結果の評価も変わるということですか。
この件に関してわたしが知っているのは、前出の「すべてのイデオロギーに挑む。宗教もイデオロギーに過ぎない」という言葉と、また別な人の言った「跪くくらいなら立ったまま死ぬ」という言葉だけです。
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cazorla at 2015-01-15 04:22
評価という前提は私にはありません。
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poirier_AAA at 2015-01-15 07:07
>cazorlaさん、
カソルラさんが、イスラムに対しては偶像を描いた時点でアウト、と考えていらっしゃる事はわかりました(この点については間違ってないですよね)
自分たちの風刺画が社会にどのような結果をもたらすか考えていないのが致命的だ、とも考えていらっしゃると思います(たぶん)。
この手の風刺画はテロの理由になるだけでなく、そのテロがひとたび起きれば、フランス(西側)のイスラム圏への軍事侵攻の理由になり、国内では極右には願ってもない移民排斥運動の機会を与え、イスラエルにはまた堂々とパレスチナを抑圧する理由を与えてしまう。わずか1枚の絵を描くだけで、世界を対イスラム(鬼退治)の構図に簡単に変えてしまうことができます。
それがわかっていながら、それでも何故フランスのいわゆる論客たちが揃ってシャルリーの肩を持つのか、フランス人が考えている表現の自由と言うのはわたしが想像できる範囲を超えているのか、それとも単にフランス人が何も考えない能天気なだけなのか、はたまた国を超える力に皆がいいように弄ばれているだけなのか、それがわからないのでずっと考えているのです。
もうやめましょう。疲れました。
カソルラさんが、イスラムに対しては偶像を描いた時点でアウト、と考えていらっしゃる事はわかりました(この点については間違ってないですよね)
自分たちの風刺画が社会にどのような結果をもたらすか考えていないのが致命的だ、とも考えていらっしゃると思います(たぶん)。
この手の風刺画はテロの理由になるだけでなく、そのテロがひとたび起きれば、フランス(西側)のイスラム圏への軍事侵攻の理由になり、国内では極右には願ってもない移民排斥運動の機会を与え、イスラエルにはまた堂々とパレスチナを抑圧する理由を与えてしまう。わずか1枚の絵を描くだけで、世界を対イスラム(鬼退治)の構図に簡単に変えてしまうことができます。
それがわかっていながら、それでも何故フランスのいわゆる論客たちが揃ってシャルリーの肩を持つのか、フランス人が考えている表現の自由と言うのはわたしが想像できる範囲を超えているのか、それとも単にフランス人が何も考えない能天気なだけなのか、はたまた国を超える力に皆がいいように弄ばれているだけなのか、それがわからないのでずっと考えているのです。
もうやめましょう。疲れました。
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poirier_AAA at 2015-01-16 18:57
上記のわたしのコメントの最初に書いてある2点ですが、どちらも違うとカソルラさんから指摘を受けました。何がどう違うかという説明はありませんでした。
ご本人のものではない解釈が最後に残るのは気持ちが悪いでしょうから、念のため書き添えておきます。
ご本人のものではない解釈が最後に残るのは気持ちが悪いでしょうから、念のため書き添えておきます。