2014年 06月 30日
やめられないとまらない 「La vérité sur l'affaire Harry Quebert」 |
1週間抱え続けていた本を、昨日ようやく読了。
2012年にアカデミー・フランセーズ文学賞のグランプリと
高校生が選ぶゴンクール賞とダブルで受賞した話題作。
「La vérité sur l'affaire Harry Quebert」(ハリー・クベール事件の真相)
フランス語圏で文庫化されたのが先日の5月末のこと。
時を同じくして英語圏でも翻訳出版され、
1ヶ月後の7月末には日本語でも読めるようになるらしい。
(邦題は「ハリー・クバート事件」東京創元社)
文庫化で軽量化したとはいえ、全部で850ページの大作。
にもかかわらず、読み始めたら最後まで読まずにはいられない、
途中で息切れすることなく最後まで引っ張って行くパワーのある作品だった。
物語は2つの時間軸を持つ。
アメリカ初の黒人大統領誕生かと国中が選挙で盛り上がる2008年。
新人作家であるマーカスは1作目で華々しいデビューを飾ったものの、
2作目がまったく書けずに苦しんでいる。
そこに救いの手を差し伸べたのがマーカスの大学の恩師であり
国民的な作家でもあるハリー・クベールだった。
もう1つの時間軸は1975年。
有名になる前の新人作家ハリー・クベールが
33年後のマーカスと同じように「書けない」で苦しんでいる。
しかし彼の前にミューズが舞い降りる。
15歳の美しい少女ノラである。
34歳のハリーと15歳のノラは恋に落ちる。
そしてハリーは彼の代表作である「悪の起源」を一気に書きあげる。
33年のブランクを経て2つの時間軸が絡み合うことになったのは、
ハリーの家の庭先からノラの死体が発見されたからだった。
骨と化したノラは「悪の起源」の初稿を持ったまま埋められていた。
犯人はハリーなのか?
マーカスはハリーにかけられた嫌疑を晴らすために調査に乗り出す。
村の住人たちの口から語られる33年前のあの夏の話。
彼らの人生の時間とともに消えて行くはずだった記憶が、つぎつぎと蘇る。
その一方で、マーカスには出版社からギリギリと圧力がかかる。
自分が納得できる作品を書いて世に認められたいと願うマーカスと、
所詮は消耗品に過ぎない小説を
マーケティングによって如何に売って儲けようかと計算高く立ち回る出版社。
いかにしてベストセラーが作られるかが良くわかる。
駆け出しの頃の悩み苦しむ無名作家のハリー(1975年)と、
自分も大作を書き上げたいと必死に足掻くマーカス(2008年)の姿が
いつのまにかダブって見えるようになる。
外見や話題性やマーケティング力によって「作家」が出来上がっていく、
その現実にうんざりするところなどは、
まだ30歳にもならない著者ジョエル・ディケールの姿も重なるような気がする。
事件の謎解きと、登場人物それぞれの人生とが織りなす、
息もつかせぬミステリー!
一度読み始めたら、やめられなくなります!
‥‥と、ここまでは確かに本当の話なのだけれど、
それでは大傑作かと聞かれると、わたしは正直うーんと唸ってしまう。
最後まで引っ張って行く力はある。これはすごいことだ。
でも、読み終わってから全体を思い返してみると、
こころに引っ掛かって記憶に残りそうな要素が少ないことに気がつく。
原因は登場人物たちにリアリティがないことだと思う。
作品の中では「愛(amour)」という言葉が連発されるが、
いかんせん、その「愛」の実体があいまいすぎて説得力がない。
人生の成功とか失敗とか挫折とか、
そういった点についても、なんだか表層的な印象が否めない。
うーん、著者が若いからだろうか、と思ってしまった。
高校生がこの作品を選んだことはなんとなく納得できる。
まだ実体がつかめない人生に、とにかく向かって行くしかない彼ら。
夢もエネルギーもある、でも自分が何に立ち向かっているのかわからない、
ふわふわした自信と不安がごちゃまぜになった時期。
この作品自体がそういう若さ故の中途半端さを抱えていると思うのだ。
一種の教養小説(ビルドゥングスロマン)とも言える。
でも、アカデミー・フランセーズの賞はどこが評価されたのだろう?
確かにフランス語圏でこの種のスラスラどんどん読める本、というのは珍しい。
でも文章の魅力という点で見たらふーんと首を傾げたくなってしまう。
高校生の下手な習作みたい、アメリカの小説の下手な翻訳みたい、
などというコメントがアマゾンfrで付いているのがよくわかる気がするのだ。
というわけで、この作品、
(アカデミー・フランセーズのことはとりあえず忘れて)
すっごく面白いエンタメ小説として読むのが正しい。
時間がたくさんある夏休みに寝食を忘れて没頭するのにぴったりの本だ。
それに、原書で読むなら中級フランス語学習者にもぴったり。
辞書の必要をまったく感じないまま、ストレスなくスラスラ読める。
夏休みは真面目なノートと鉛筆の勉強のかわりに、
エンタメ本を楽しみながら読んでみる、なんていうのもいいかも。
著者ジョエル・ディケールが本作について語っている↓
Joël Dicker 「La vérité sur l'affaire Harry Quebert」
ジョエル・ディケール「ハリー・クバート事件」
2012年にアカデミー・フランセーズ文学賞のグランプリと
高校生が選ぶゴンクール賞とダブルで受賞した話題作。
「La vérité sur l'affaire Harry Quebert」(ハリー・クベール事件の真相)
フランス語圏で文庫化されたのが先日の5月末のこと。
時を同じくして英語圏でも翻訳出版され、
1ヶ月後の7月末には日本語でも読めるようになるらしい。
(邦題は「ハリー・クバート事件」東京創元社)
文庫化で軽量化したとはいえ、全部で850ページの大作。
にもかかわらず、読み始めたら最後まで読まずにはいられない、
途中で息切れすることなく最後まで引っ張って行くパワーのある作品だった。
物語は2つの時間軸を持つ。
アメリカ初の黒人大統領誕生かと国中が選挙で盛り上がる2008年。
新人作家であるマーカスは1作目で華々しいデビューを飾ったものの、
2作目がまったく書けずに苦しんでいる。
そこに救いの手を差し伸べたのがマーカスの大学の恩師であり
国民的な作家でもあるハリー・クベールだった。
もう1つの時間軸は1975年。
有名になる前の新人作家ハリー・クベールが
33年後のマーカスと同じように「書けない」で苦しんでいる。
しかし彼の前にミューズが舞い降りる。
15歳の美しい少女ノラである。
34歳のハリーと15歳のノラは恋に落ちる。
そしてハリーは彼の代表作である「悪の起源」を一気に書きあげる。
33年のブランクを経て2つの時間軸が絡み合うことになったのは、
ハリーの家の庭先からノラの死体が発見されたからだった。
骨と化したノラは「悪の起源」の初稿を持ったまま埋められていた。
犯人はハリーなのか?
マーカスはハリーにかけられた嫌疑を晴らすために調査に乗り出す。
村の住人たちの口から語られる33年前のあの夏の話。
彼らの人生の時間とともに消えて行くはずだった記憶が、つぎつぎと蘇る。
その一方で、マーカスには出版社からギリギリと圧力がかかる。
自分が納得できる作品を書いて世に認められたいと願うマーカスと、
所詮は消耗品に過ぎない小説を
マーケティングによって如何に売って儲けようかと計算高く立ち回る出版社。
いかにしてベストセラーが作られるかが良くわかる。
駆け出しの頃の悩み苦しむ無名作家のハリー(1975年)と、
自分も大作を書き上げたいと必死に足掻くマーカス(2008年)の姿が
いつのまにかダブって見えるようになる。
外見や話題性やマーケティング力によって「作家」が出来上がっていく、
その現実にうんざりするところなどは、
まだ30歳にもならない著者ジョエル・ディケールの姿も重なるような気がする。
事件の謎解きと、登場人物それぞれの人生とが織りなす、
息もつかせぬミステリー!
一度読み始めたら、やめられなくなります!
‥‥と、ここまでは確かに本当の話なのだけれど、
それでは大傑作かと聞かれると、わたしは正直うーんと唸ってしまう。
最後まで引っ張って行く力はある。これはすごいことだ。
でも、読み終わってから全体を思い返してみると、
こころに引っ掛かって記憶に残りそうな要素が少ないことに気がつく。
原因は登場人物たちにリアリティがないことだと思う。
作品の中では「愛(amour)」という言葉が連発されるが、
いかんせん、その「愛」の実体があいまいすぎて説得力がない。
人生の成功とか失敗とか挫折とか、
そういった点についても、なんだか表層的な印象が否めない。
うーん、著者が若いからだろうか、と思ってしまった。
高校生がこの作品を選んだことはなんとなく納得できる。
まだ実体がつかめない人生に、とにかく向かって行くしかない彼ら。
夢もエネルギーもある、でも自分が何に立ち向かっているのかわからない、
ふわふわした自信と不安がごちゃまぜになった時期。
この作品自体がそういう若さ故の中途半端さを抱えていると思うのだ。
一種の教養小説(ビルドゥングスロマン)とも言える。
でも、アカデミー・フランセーズの賞はどこが評価されたのだろう?
確かにフランス語圏でこの種のスラスラどんどん読める本、というのは珍しい。
でも文章の魅力という点で見たらふーんと首を傾げたくなってしまう。
高校生の下手な習作みたい、アメリカの小説の下手な翻訳みたい、
などというコメントがアマゾンfrで付いているのがよくわかる気がするのだ。
というわけで、この作品、
(アカデミー・フランセーズのことはとりあえず忘れて)
すっごく面白いエンタメ小説として読むのが正しい。
時間がたくさんある夏休みに寝食を忘れて没頭するのにぴったりの本だ。
それに、原書で読むなら中級フランス語学習者にもぴったり。
辞書の必要をまったく感じないまま、ストレスなくスラスラ読める。
夏休みは真面目なノートと鉛筆の勉強のかわりに、
エンタメ本を楽しみながら読んでみる、なんていうのもいいかも。
著者ジョエル・ディケールが本作について語っている↓
Joël Dicker 「La vérité sur l'affaire Harry Quebert」
ジョエル・ディケール「ハリー・クバート事件」
by poirier_AAA
| 2014-06-30 21:49
| フランス語を読む
|
Comments(2)
Commented
by
saheizi-inokori at 2014-07-01 11:23
うむ、どうしようか。
0
Commented
by
poirier_AAA at 2014-07-01 16:40