2012年 09月 11日
繋がる |
今年の夏、軽い西洋アレルギーになった。
最初は、フランスにあってもかなり特異な存在であるパリジャンに嫌気がさしたかと思った。パリジャンとは、無愛想で自己中心的で気が短く、いつもストレスをかかえてイライラしており、パリはストレスがたまるからと事あるごとにパリを脱出したがるくせにパリに住んでいることを無闇に鼻にかける人種、というのがフランスに於ける一般的な認識である。
でも、パリジャン・アレルギーだけではなくてフランス語アレルギーを発していることにも気がついた。理由はわからないけれど、フランス語で書かれた文が鼻についてたまらない。もうフランス語なんて読みたくないんだよ!と叫びたくなった。
といいながらも、結局「何か」を探してフランス語の海を泳いでいたわけだけれど。
何がイヤなんだろう、何が足りないんだろうと、ずっとずっと自問していた。
ポルトガルで過ごした3週間弱、居心地の悪さは少し和らいだ。
畑があって家畜がいて日々の労働がある場所だったからだろうかと思った。
日常のバタバタの中で考え続け、ようやく1つ答えを見つけたかもと思う。
「繋がっていない」不安感。
自分がまわりのものに繋がっているという実感が持てないのが苦しい。
傲慢な言い方のようだけれど、繋がりたいのは人間じゃない。
自分のまわりの大地であり、海や山、植物、天気、
それらと仲をとりもってくださる八百万の神様。
お盆になると家に戻ってくるご先祖様。
いただきます、と、おかげさまで、がするりと口から出る生活。
人間は、その延長線上にある繋がりたいものの一部だ。
西洋(キリスト教)は、良くも悪くもとことん人間本位だと思う。
「わたし」という自我が中心にある。
人間こそがこの世の最高の存在(もちろん神様を抜かしてね)だ。
神の膝元に存在する「わたし」が、「わたし」の判断で世の中を動かす。
自然も獣も、その「わたし」に相対するものでしかない。
わたしにはそれが居心地が悪い。
田舎で、蝉の声とカエルの合唱に囲まれて毎日山を眺めて育ったわたしには、
人間対自然という在り方は考えられないのだ。
自然はわたしの目の前にあるものじゃない。
わたしという存在が自然の中に溶けているのだ。
わたしたちは切り離せない。
個人が感じる激しい喜びや悲しみも、いつか自然の中に溶けだして中和され、
穏やかな記憶や夢となって共有されるだろう。
わたしたちが植物や動物や魚をとって命の糧にするように、
わたしたちの体もまた、新しい土を育むための元素となる。
これまでずっと意識して来なかったことが、ふいに「言葉にしてくれ」と意識の表層に現れてきたような気がする。
自分の体が、この地で食べて眠って喜怒哀楽をもって生きている自分の体が、
大地と溶け合っていない。孤独で不安で、影から切り離された気分だ。
ここにはお盆のたびに戻って来られるご先祖様もいなければ、
荒神様も道祖神も鎮守の森もない。
付喪神もいなければ百鬼夜行もない。
死んで迷った狸に、坊さんがお経を唱えて成仏させてやることもない。
「いただきます」のかわりに「たくさん召し上がれ」
「おかげさまで」は「神様の思し召しで」
西洋では、人間はとことん孤独だと思う。
頼るべき神ですら、契約関係で成り立っている。
契約関係が破綻したら、人は闇に放り出されてしまうのだ。
その闇と向かい合うのもまた人間だというのに。
アミニズム的とかプリミティブな宗教観だとかいわれても構うものか。
わたしは世界と相対することはできない。
そんなふうには生きていられない。
わたしはこの世界と一体で、お互いがお互いに支え合って生きている。
良いも悪いもみな飲み込んで、存在そのものを受け入れる。
裏切りも殉教もない。敵も味方もない。
ただ、滔々とした時間と形をなさないおだやかな共有意識が、
なにもかもすべて、存在するもののすべてを飲み込んで流れる。
そんな世界観が無性に懐かしい。
八百万の神様もご先祖様も、
わたしが真剣に願えば、ここまで出張して下さるだろうか?
自分の影を地面に縫い止めるための助けが欲しい、と切実に思う。
追伸:
自分が書いた文章を読み返してみて思った。
わたしって、なんでこう言葉をぐちゃぐちゃ書き連ねてしまうんだろう。
書いている内容と実際にしていることが合ってないじゃないか。
しつこく「わたし」を連発するところが、自分でも気に入らない。
なんのことはない、「西洋化された自分」に嫌気がさしていただけだ。
最初は、フランスにあってもかなり特異な存在であるパリジャンに嫌気がさしたかと思った。パリジャンとは、無愛想で自己中心的で気が短く、いつもストレスをかかえてイライラしており、パリはストレスがたまるからと事あるごとにパリを脱出したがるくせにパリに住んでいることを無闇に鼻にかける人種、というのがフランスに於ける一般的な認識である。
でも、パリジャン・アレルギーだけではなくてフランス語アレルギーを発していることにも気がついた。理由はわからないけれど、フランス語で書かれた文が鼻についてたまらない。もうフランス語なんて読みたくないんだよ!と叫びたくなった。
といいながらも、結局「何か」を探してフランス語の海を泳いでいたわけだけれど。
何がイヤなんだろう、何が足りないんだろうと、ずっとずっと自問していた。
ポルトガルで過ごした3週間弱、居心地の悪さは少し和らいだ。
畑があって家畜がいて日々の労働がある場所だったからだろうかと思った。
日常のバタバタの中で考え続け、ようやく1つ答えを見つけたかもと思う。
「繋がっていない」不安感。
自分がまわりのものに繋がっているという実感が持てないのが苦しい。
傲慢な言い方のようだけれど、繋がりたいのは人間じゃない。
自分のまわりの大地であり、海や山、植物、天気、
それらと仲をとりもってくださる八百万の神様。
お盆になると家に戻ってくるご先祖様。
いただきます、と、おかげさまで、がするりと口から出る生活。
人間は、その延長線上にある繋がりたいものの一部だ。
西洋(キリスト教)は、良くも悪くもとことん人間本位だと思う。
「わたし」という自我が中心にある。
人間こそがこの世の最高の存在(もちろん神様を抜かしてね)だ。
神の膝元に存在する「わたし」が、「わたし」の判断で世の中を動かす。
自然も獣も、その「わたし」に相対するものでしかない。
わたしにはそれが居心地が悪い。
田舎で、蝉の声とカエルの合唱に囲まれて毎日山を眺めて育ったわたしには、
人間対自然という在り方は考えられないのだ。
自然はわたしの目の前にあるものじゃない。
わたしという存在が自然の中に溶けているのだ。
わたしたちは切り離せない。
個人が感じる激しい喜びや悲しみも、いつか自然の中に溶けだして中和され、
穏やかな記憶や夢となって共有されるだろう。
わたしたちが植物や動物や魚をとって命の糧にするように、
わたしたちの体もまた、新しい土を育むための元素となる。
これまでずっと意識して来なかったことが、ふいに「言葉にしてくれ」と意識の表層に現れてきたような気がする。
自分の体が、この地で食べて眠って喜怒哀楽をもって生きている自分の体が、
大地と溶け合っていない。孤独で不安で、影から切り離された気分だ。
ここにはお盆のたびに戻って来られるご先祖様もいなければ、
荒神様も道祖神も鎮守の森もない。
付喪神もいなければ百鬼夜行もない。
死んで迷った狸に、坊さんがお経を唱えて成仏させてやることもない。
「いただきます」のかわりに「たくさん召し上がれ」
「おかげさまで」は「神様の思し召しで」
西洋では、人間はとことん孤独だと思う。
頼るべき神ですら、契約関係で成り立っている。
契約関係が破綻したら、人は闇に放り出されてしまうのだ。
その闇と向かい合うのもまた人間だというのに。
アミニズム的とかプリミティブな宗教観だとかいわれても構うものか。
わたしは世界と相対することはできない。
そんなふうには生きていられない。
わたしはこの世界と一体で、お互いがお互いに支え合って生きている。
良いも悪いもみな飲み込んで、存在そのものを受け入れる。
裏切りも殉教もない。敵も味方もない。
ただ、滔々とした時間と形をなさないおだやかな共有意識が、
なにもかもすべて、存在するもののすべてを飲み込んで流れる。
そんな世界観が無性に懐かしい。
八百万の神様もご先祖様も、
わたしが真剣に願えば、ここまで出張して下さるだろうか?
自分の影を地面に縫い止めるための助けが欲しい、と切実に思う。
追伸:
自分が書いた文章を読み返してみて思った。
わたしって、なんでこう言葉をぐちゃぐちゃ書き連ねてしまうんだろう。
書いている内容と実際にしていることが合ってないじゃないか。
しつこく「わたし」を連発するところが、自分でも気に入らない。
なんのことはない、「西洋化された自分」に嫌気がさしていただけだ。
by poirier_AAA
| 2012-09-11 17:11
| 言葉と文化のはざま
|
Comments(24)
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saheizi-inokori at 2012-09-11 22:29
その気持ちは「パリには自然がない」ということではなくて「パリにいると自然とともに生きる空気がない」ということでしょうか。
具体的に町や村のお祭りとか道祖神などがないと poirierさんの気持ちも変化してしまうのですね。
東京とパリの違いはそこにあるのだとすると、東京に住んでいることを喜びとしなければいけないのだなあ。
具体的に町や村のお祭りとか道祖神などがないと poirierさんの気持ちも変化してしまうのですね。
東京とパリの違いはそこにあるのだとすると、東京に住んでいることを喜びとしなければいけないのだなあ。
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at 2012-09-11 22:47
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ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
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poirier_AAA at 2012-09-12 06:10
>saheiziさん、こんばんは。
う〜ん、やっぱり自分でもまだ言葉にしきれていないみたいです。
自然があるかどうか、ではないですね。それなら東京よりもパリの方がよほど緑は多いので落ち着くはずですから。お祭りとか道祖神の有る無しが大きな影を落としているわけでもないです。
敢えて言うなら「生かしてもらっている」という意識がほとんどないことでしょうか。人間は人間であるから素晴らしい、人の人生の総決算も神との関係の中にある、西洋的なそういう考え方が狭苦しく息苦しく感じられてなりません。
すべてに神が宿りうる日本文化はここでは異質なのだと、最近ひしひし感じるのです。そういう文化を栄養にして育ってきた自分が根無し草になっている気がするんですよ。
う〜ん、やっぱり自分でもまだ言葉にしきれていないみたいです。
自然があるかどうか、ではないですね。それなら東京よりもパリの方がよほど緑は多いので落ち着くはずですから。お祭りとか道祖神の有る無しが大きな影を落としているわけでもないです。
敢えて言うなら「生かしてもらっている」という意識がほとんどないことでしょうか。人間は人間であるから素晴らしい、人の人生の総決算も神との関係の中にある、西洋的なそういう考え方が狭苦しく息苦しく感じられてなりません。
すべてに神が宿りうる日本文化はここでは異質なのだと、最近ひしひし感じるのです。そういう文化を栄養にして育ってきた自分が根無し草になっている気がするんですよ。
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poirier_AAA at 2012-09-12 06:22
>鍵コメさん、はじめまして。
そうですね。不快な気持ちを抱えたまま一日を終わるのはたしかにもったいないことですよね。わたしも、笑って生活する方がずっといいと思います。
ただ、上に書いたことは毎日笑顔でいられるかどうかとはちょっと違う話なのです。ケセラセラと軽く流してしまえない、自分の本質に関わる問題で、わたしはここから目を反らしたくありません。
不満を書いているように読めたのだったらごめんなさい。不快な思いを抱かせる文章になってしまったのは、わたしの文章力がないせいですね。言い訳がましいですけれど、自分の頭の中で整理しきれないことを書いてみました。書くことでスッキリわかることもありますから。でも、今回は上手く行かなかったみたいです。
そうですね。不快な気持ちを抱えたまま一日を終わるのはたしかにもったいないことですよね。わたしも、笑って生活する方がずっといいと思います。
ただ、上に書いたことは毎日笑顔でいられるかどうかとはちょっと違う話なのです。ケセラセラと軽く流してしまえない、自分の本質に関わる問題で、わたしはここから目を反らしたくありません。
不満を書いているように読めたのだったらごめんなさい。不快な思いを抱かせる文章になってしまったのは、わたしの文章力がないせいですね。言い訳がましいですけれど、自分の頭の中で整理しきれないことを書いてみました。書くことでスッキリわかることもありますから。でも、今回は上手く行かなかったみたいです。
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Mtonosama at 2012-09-12 06:59
ご先祖さまはもしかしたらパリまで足をのばしてくださるか
もしれませんよ。
「梨の木が良いところに住んでくれてるから、私たちも
ここまで来られてうれしいよ」とかおっしゃりながら。
私も両親がいなくなり、実家のお仏壇も精を抜いて処分され
てしまいました。
だから、御先祖様は私のところには本来なら来てくれないの
でしょう。でも、小さな仏様スペースをつくりました。
チベットからお連れした一体の仏様と曼荼羅図と両親の写真
をまつり、毎朝手を合わせています。
こんなこと昔ならバカにしてたかもしれませんが、今では
朝の大切な儀式です。
ただロウソクのお灯明はかなり火の用心を要します^_^;
もしれませんよ。
「梨の木が良いところに住んでくれてるから、私たちも
ここまで来られてうれしいよ」とかおっしゃりながら。
私も両親がいなくなり、実家のお仏壇も精を抜いて処分され
てしまいました。
だから、御先祖様は私のところには本来なら来てくれないの
でしょう。でも、小さな仏様スペースをつくりました。
チベットからお連れした一体の仏様と曼荼羅図と両親の写真
をまつり、毎朝手を合わせています。
こんなこと昔ならバカにしてたかもしれませんが、今では
朝の大切な儀式です。
ただロウソクのお灯明はかなり火の用心を要します^_^;
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at 2012-09-12 07:01
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
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saheizi-inokori at 2012-09-12 09:46
やっぱり空気・文化の空気みたいなものかもしれないですね。
人びとの会話、テレビ、新聞記事、、いろんなすべてに”日本的なもの=生かされる喜びみたいなもの”がない。
日本のおばあちゃんの、今日も一日無事すんだよ、という皺だらけの笑顔・物腰がない、でっぷり太った腰に手を当てて、口角泡を飛ばす自立した人がいても^^。
人びとの会話、テレビ、新聞記事、、いろんなすべてに”日本的なもの=生かされる喜びみたいなもの”がない。
日本のおばあちゃんの、今日も一日無事すんだよ、という皺だらけの笑顔・物腰がない、でっぷり太った腰に手を当てて、口角泡を飛ばす自立した人がいても^^。
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wildrose53 at 2012-09-12 10:00
梨の木さん、こんにちは。この記事、とてもよく伝わってきます。いい記事をありがとうございます。
自分のことで恐縮ですが、可愛がってくれた祖母はカトリックの信者でした。私自身はプロテスタントの教会附属の幼稚園、小学校時代は教会の日曜学校に通い、中学からはキリスト教を精神的支柱とする学校で学びました。ものごころついたとき、一番身近にあったのがキリスト教で、そこから離れず今に至っている理由は、たぶん、大好きだった祖母の影響だろうと思います。
確かに、キリスト教は「人間」がまずあるんですね。山川草木悉皆成仏と言われるような感覚とは違う。奥会津に住んで、朝、「お天道様、ありがとうございます」と天を拝み、夕方には「ありがとうございました」と深々と頭を垂れる義母と暮らしながら、自然の懐に抱かれる感覚というものを初めて知りました。それは、自然が豊かで美しいなどという都会人の感覚とはまったく別の、自分もその一部であるという実感です。
自分のことで恐縮ですが、可愛がってくれた祖母はカトリックの信者でした。私自身はプロテスタントの教会附属の幼稚園、小学校時代は教会の日曜学校に通い、中学からはキリスト教を精神的支柱とする学校で学びました。ものごころついたとき、一番身近にあったのがキリスト教で、そこから離れず今に至っている理由は、たぶん、大好きだった祖母の影響だろうと思います。
確かに、キリスト教は「人間」がまずあるんですね。山川草木悉皆成仏と言われるような感覚とは違う。奥会津に住んで、朝、「お天道様、ありがとうございます」と天を拝み、夕方には「ありがとうございました」と深々と頭を垂れる義母と暮らしながら、自然の懐に抱かれる感覚というものを初めて知りました。それは、自然が豊かで美しいなどという都会人の感覚とはまったく別の、自分もその一部であるという実感です。
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wildrose53 at 2012-09-12 10:05
すみません、字数オーバーで続きです。
日本語には、もともと主語を曖昧にする文化があって、西洋なら、まず文章が成立しませんよね。どちらがいいかということではないですが、日本人の感性というものは元来、今のように誰もが「私は」「オレは」と言い募らない、足元の草も自分も同じ、というようなところにあったのではないかなと思います。
体にしみこんでいる感覚は、異質な場所で初めて蘇るのかもしれません。ああ、ここは私の場所じゃない、と。梨の木さんと逆の立場で、私もここで様々な葛藤があります。私自身は、生かされている感覚がありますけれど、何に、というところは決定的に違うかもしれない。それは自分だけの領域ですが、私にとっては、もし自分に信仰というものがなかったなら、ここで暮らすことはできなかったと思っています。うまく伝わらないかもしれませんが……
八百万の神さま方は、梨の木さんの近くにもしょっちゅう出張されているような気がしますよ。
日本語には、もともと主語を曖昧にする文化があって、西洋なら、まず文章が成立しませんよね。どちらがいいかということではないですが、日本人の感性というものは元来、今のように誰もが「私は」「オレは」と言い募らない、足元の草も自分も同じ、というようなところにあったのではないかなと思います。
体にしみこんでいる感覚は、異質な場所で初めて蘇るのかもしれません。ああ、ここは私の場所じゃない、と。梨の木さんと逆の立場で、私もここで様々な葛藤があります。私自身は、生かされている感覚がありますけれど、何に、というところは決定的に違うかもしれない。それは自分だけの領域ですが、私にとっては、もし自分に信仰というものがなかったなら、ここで暮らすことはできなかったと思っています。うまく伝わらないかもしれませんが……
八百万の神さま方は、梨の木さんの近くにもしょっちゅう出張されているような気がしますよ。
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lotosblume
at 2012-09-12 14:22
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秋ですねー。気持ちの上では。
日本に居ても、繋がりに不安を感じたことは私もあります。
私たちは一人で生まれ一人で旅立ちますから。
異郷の地に居るとそれが強く振れるのかもしれません。
愛する人がいるとかいないとか、神社があるとかないとか、そのようなこととはちょっと次元が異なる、私たちの資質に備わっている根本的なもの、このような不安は誰しも感じているものだと思います。その強弱の違いはあってもね。
最近、加齢というのは面白いと感じています。還暦というのは、やはり意味があるとも思います。そのような不安から距離を置くことができるからです。この頃どういうわけか、生きるという意味の輪郭がぼんやりと姿をあらわしつつあります。
新参者ですが、梨の木ママさんのブログ大好きです。
子供たちに対してのしっかりママさんも好きですし、繋がりに不安を覚え立ち止まる梨の木さんも好きです。
梨の木さんにほんの少し自分を重ねて(世代がちがいますが)パリの生活を楽しんでいます。
これからもよろしくね。
日本に居ても、繋がりに不安を感じたことは私もあります。
私たちは一人で生まれ一人で旅立ちますから。
異郷の地に居るとそれが強く振れるのかもしれません。
愛する人がいるとかいないとか、神社があるとかないとか、そのようなこととはちょっと次元が異なる、私たちの資質に備わっている根本的なもの、このような不安は誰しも感じているものだと思います。その強弱の違いはあってもね。
最近、加齢というのは面白いと感じています。還暦というのは、やはり意味があるとも思います。そのような不安から距離を置くことができるからです。この頃どういうわけか、生きるという意味の輪郭がぼんやりと姿をあらわしつつあります。
新参者ですが、梨の木ママさんのブログ大好きです。
子供たちに対してのしっかりママさんも好きですし、繋がりに不安を覚え立ち止まる梨の木さんも好きです。
梨の木さんにほんの少し自分を重ねて(世代がちがいますが)パリの生活を楽しんでいます。
これからもよろしくね。
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poirier_AAA at 2012-09-12 19:24
>mtonosamaさん、こんにちは。
「お仏壇も精を抜いて処分されてしまいました」
まさにこれですよ。お仏壇の精を抜く、地鎮祭をする、荒神様にお供えをする。こういう習慣が生活の中に自然にあるんですよね日本って。で、こちらにはまったくないのです。
仏様スペース、とてもいいですね。
引越以来長いこと行方不明だった祖父の写真も先日出てきたことですし、わたしも朝のお参りをしてみようかと思います。そうしたら少し気持ちも落ち着くかもしれませんよね。
ハイカラな祖母でしたから、きっとパリに呼ばれたらはしゃいでやってくることでしょう。
「お仏壇も精を抜いて処分されてしまいました」
まさにこれですよ。お仏壇の精を抜く、地鎮祭をする、荒神様にお供えをする。こういう習慣が生活の中に自然にあるんですよね日本って。で、こちらにはまったくないのです。
仏様スペース、とてもいいですね。
引越以来長いこと行方不明だった祖父の写真も先日出てきたことですし、わたしも朝のお参りをしてみようかと思います。そうしたら少し気持ちも落ち着くかもしれませんよね。
ハイカラな祖母でしたから、きっとパリに呼ばれたらはしゃいでやってくることでしょう。
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poirier_AAA at 2012-09-12 19:25
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poirier_AAA at 2012-09-12 19:31
>saheiziさん、こんにちは。
そうですね、自然によって生かされている喜びはないでしょうね。動植物やモノにまで命があるとも考えないですし。
こういった人間中心の文化・考え方もあって当然と思うので批判するつもりはないのですが、違う文化から迷い込んでしまったわたしはどうにも表現のしようがない孤独を感じます。人がどうであろうと自然が抱きとってくれる、そういう安心感がないんでしょうねぇ。
そうですね、自然によって生かされている喜びはないでしょうね。動植物やモノにまで命があるとも考えないですし。
こういった人間中心の文化・考え方もあって当然と思うので批判するつもりはないのですが、違う文化から迷い込んでしまったわたしはどうにも表現のしようがない孤独を感じます。人がどうであろうと自然が抱きとってくれる、そういう安心感がないんでしょうねぇ。
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poirier_AAA at 2012-09-12 19:42
>wildroseさん、こんにちは。
わたしは、まさにその山川草木悉皆成仏の文化で育ちました。家は農家ではありませんでしたけれど、お天道様に感謝することが、もう息をするくらい自然な発想でした。
だから、ちょっと言葉が荒いですけれど、どんなに人間関係で問題があろうと例えば運命の悪戯で野垂れ死にすることになろうと、最後はこの大地がすっかり抱きとってくれるはず、自分は他の生き物と同じように元素に還元されてまた豊かな次の命を育むんだという、妙な安心感があったんですね。自分と自然の境界線が溶け合って見えないような感覚です。
でも、キリスト教文化というのはそうではないです。わたしは大地に独りで立ち尽くしたまま、まわりから溶け合うことを拒絶されているような気がします。良いとか悪いとかいうことではなくて、そういうスタンスでまわりと向き合う文化なのですよね。
わたしは、まさにその山川草木悉皆成仏の文化で育ちました。家は農家ではありませんでしたけれど、お天道様に感謝することが、もう息をするくらい自然な発想でした。
だから、ちょっと言葉が荒いですけれど、どんなに人間関係で問題があろうと例えば運命の悪戯で野垂れ死にすることになろうと、最後はこの大地がすっかり抱きとってくれるはず、自分は他の生き物と同じように元素に還元されてまた豊かな次の命を育むんだという、妙な安心感があったんですね。自分と自然の境界線が溶け合って見えないような感覚です。
でも、キリスト教文化というのはそうではないです。わたしは大地に独りで立ち尽くしたまま、まわりから溶け合うことを拒絶されているような気がします。良いとか悪いとかいうことではなくて、そういうスタンスでまわりと向き合う文化なのですよね。
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poirier_AAA at 2012-09-12 20:12
>wildroseさん、つづきです。
いろいろ書いていくと、個人の宗教観の話になってしまいそうなので、ちょっと自分を戒めつつ(笑)
何かが違うという違和感は、実は自分でも気がつかなかった「自分」の底をのぞくチャンスだろうと思っています。自分が認めたくないこと言葉にできないことって、抱えていると気持ちよくないんですよね。でも、それをじいっと見つめてきちんと言葉にすることができたら、すうっと気が晴れるんじゃないかという予感がするのです。そういう底を覗いた後の静けさが欲しいなぁと。
前にちょっと書きましたけれど、昔の人は生活の中で様々な手仕事をしながらじっと己の底を覗きこんでいたかもしれないです。
あぁ自分のことばっかり書いてしまってごめんなさい。ハルさんのコメントを読んで、また考えるキッカケを頂けた気がします。ありがとうございました。
いろいろ書いていくと、個人の宗教観の話になってしまいそうなので、ちょっと自分を戒めつつ(笑)
何かが違うという違和感は、実は自分でも気がつかなかった「自分」の底をのぞくチャンスだろうと思っています。自分が認めたくないこと言葉にできないことって、抱えていると気持ちよくないんですよね。でも、それをじいっと見つめてきちんと言葉にすることができたら、すうっと気が晴れるんじゃないかという予感がするのです。そういう底を覗いた後の静けさが欲しいなぁと。
前にちょっと書きましたけれど、昔の人は生活の中で様々な手仕事をしながらじっと己の底を覗きこんでいたかもしれないです。
あぁ自分のことばっかり書いてしまってごめんなさい。ハルさんのコメントを読んで、また考えるキッカケを頂けた気がします。ありがとうございました。
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by
yk
at 2012-09-12 20:39
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poirier様こんにちは。いつも楽しく拝読しています。
今回の記事は読者の方の反応も大きいですね。私も深く感じるところがありました。
外国に深く関われば関わるほど愛国的になると言う人もいますね。血なのかDNAなのか、父母未生以前の郷愁が立ち上って来るような気持ちになります。
ヨーロッパやアメリカを体験しに行ってるのにアジアの人とばかりどうしても仲良くなるとか。宗教の違いだけでもないような…。風土は人間を作る大きな要因なのでしょうか。
でも違和感というのはなにかを生むものだと思います。生むのは苦しいですよね~。たとえ孤独な戦いのような気がしても私たちはすばらしい日本語を通じて地球の裏側でもつながっておりますよー。
(見守るだけですけど)
これからも日記は続けてくださいね。お元気で~。
今回の記事は読者の方の反応も大きいですね。私も深く感じるところがありました。
外国に深く関われば関わるほど愛国的になると言う人もいますね。血なのかDNAなのか、父母未生以前の郷愁が立ち上って来るような気持ちになります。
ヨーロッパやアメリカを体験しに行ってるのにアジアの人とばかりどうしても仲良くなるとか。宗教の違いだけでもないような…。風土は人間を作る大きな要因なのでしょうか。
でも違和感というのはなにかを生むものだと思います。生むのは苦しいですよね~。たとえ孤独な戦いのような気がしても私たちはすばらしい日本語を通じて地球の裏側でもつながっておりますよー。
(見守るだけですけど)
これからも日記は続けてくださいね。お元気で~。
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by
poirier_AAA at 2012-09-12 20:42
>lotosblumeさん、こんにちは。
秋ですね〜。名実共にパリでは。
日本はまだまだ残暑が厳しいようですね。長い夏の疲れも出てくる頃なのではと思います。どうぞお気をつけてお過ごし下さい。
「加齢は面白い」は、少しわかるような気がします。若い頃には絶対に気づけなかっただろうと思うこともたくさんありますし、無我夢中だった頃を振り返って、あれが若さだったのか冷静に思い出すこともできるようになりました。でも、同時に加齢はとても怖いのです。子どもが小さいせいもあるでしょうね。今のこの宙ぶらりんな状態では死んでも死にきれんわいと未練タラタラで考えることもあります。
還暦を過ぎると、もう少しいろいろなものが見えるようになるのでしょうか。ならばそこに達するまでは、せいぜい精一杯悩んだり笑ったり、新しいことに挑戦したりして自分を試してみることにしましょう。まだまだ悟ったようなことを言うには青すぎますね。
こんなブログにここまで温かい言葉をかけて下さって、感謝の言葉もありません。人に「好き」と言ってもらうって、すごく嬉しいことですね。わたしも「好き」を惜しまないようにしよう。
こちらこそ、これからもよろしくお願いします。
秋ですね〜。名実共にパリでは。
日本はまだまだ残暑が厳しいようですね。長い夏の疲れも出てくる頃なのではと思います。どうぞお気をつけてお過ごし下さい。
「加齢は面白い」は、少しわかるような気がします。若い頃には絶対に気づけなかっただろうと思うこともたくさんありますし、無我夢中だった頃を振り返って、あれが若さだったのか冷静に思い出すこともできるようになりました。でも、同時に加齢はとても怖いのです。子どもが小さいせいもあるでしょうね。今のこの宙ぶらりんな状態では死んでも死にきれんわいと未練タラタラで考えることもあります。
還暦を過ぎると、もう少しいろいろなものが見えるようになるのでしょうか。ならばそこに達するまでは、せいぜい精一杯悩んだり笑ったり、新しいことに挑戦したりして自分を試してみることにしましょう。まだまだ悟ったようなことを言うには青すぎますね。
こんなブログにここまで温かい言葉をかけて下さって、感謝の言葉もありません。人に「好き」と言ってもらうって、すごく嬉しいことですね。わたしも「好き」を惜しまないようにしよう。
こちらこそ、これからもよろしくお願いします。
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poirier_AAA at 2012-09-12 21:04
>ykさん、初めまして。
いつも読んでいただいているとのこと、どうもありがとうございます。
おっしゃるとおり、宗教の違いだけには集約できないと思います。同じ宗教も土地が変わると少しずつ変わるものですし。どちらかというと気候風土に由るところが大きいのかもしれません。不思議と言えば不思議、当然と言えばまた当然ですけれど、それによってもたらされるヴァリエーションの大きさを考えると、やはり驚きますね。
そうして、どの気候風土に暮らすかによって影響を受ける部分がある一方で、ある言葉を使い続けることで離れた文化と繋がることができるのも事実です。日本語を使い続けている限り、わたしが受け継いでいるものが消えてしまうことはないですね。
>これからも日記は続けてくださいね
実はそろそろ休んだ方がいいのじゃないかと考えていたところでした。なぜわかってしまったんでしょう?そんな感じが漂ってましたか?
いつも読んでいただいているとのこと、どうもありがとうございます。
おっしゃるとおり、宗教の違いだけには集約できないと思います。同じ宗教も土地が変わると少しずつ変わるものですし。どちらかというと気候風土に由るところが大きいのかもしれません。不思議と言えば不思議、当然と言えばまた当然ですけれど、それによってもたらされるヴァリエーションの大きさを考えると、やはり驚きますね。
そうして、どの気候風土に暮らすかによって影響を受ける部分がある一方で、ある言葉を使い続けることで離れた文化と繋がることができるのも事実です。日本語を使い続けている限り、わたしが受け継いでいるものが消えてしまうことはないですね。
>これからも日記は続けてくださいね
実はそろそろ休んだ方がいいのじゃないかと考えていたところでした。なぜわかってしまったんでしょう?そんな感じが漂ってましたか?
Commented
by
korima
at 2012-09-12 23:09
x
たまにしかコメントいたしませんが
いつも楽しみに拝見しています。
続けてくださいね。
若い方の考えかたに触れる貴重な機会なんです。
わたしも仏さまスペースを作っています。
とても気持ちがやわらぎます。
亡くなったペットの写真も一緒に置いてます。
最近、「いただきます」と「ごちそうさま」を
ちゃんと言うようになりました。
これも、なおざりにしていたことです。
もうすこし、自然と仲良くなれるように…です。
いつも楽しみに拝見しています。
続けてくださいね。
若い方の考えかたに触れる貴重な機会なんです。
わたしも仏さまスペースを作っています。
とても気持ちがやわらぎます。
亡くなったペットの写真も一緒に置いてます。
最近、「いただきます」と「ごちそうさま」を
ちゃんと言うようになりました。
これも、なおざりにしていたことです。
もうすこし、自然と仲良くなれるように…です。
Commented
by
poirier_AAA at 2012-09-13 00:24
>korimaさん、こんにちは。
いつも読んでいただいて、ありがとうございます。
korimaさんも仏様のスペースをお持ちですか。
実家に帰って仏壇にお線香を立てて手を合わせると、わたしも気持ちが和らぎますね。小さい頃は仏壇の闇が良くわからなくて怖いものでしたけれど。祖父母がそこに入ってから、ずっと身近な存在に変わった気がします。
「いただきます」も「ごちそうさまでした」も、大事な言葉ですよね。子どもたちが、例えば将来日本語を話さなくなったとしても、この言葉だけは忘れて欲しくないと思います。
いつも読んでいただいて、ありがとうございます。
korimaさんも仏様のスペースをお持ちですか。
実家に帰って仏壇にお線香を立てて手を合わせると、わたしも気持ちが和らぎますね。小さい頃は仏壇の闇が良くわからなくて怖いものでしたけれど。祖父母がそこに入ってから、ずっと身近な存在に変わった気がします。
「いただきます」も「ごちそうさまでした」も、大事な言葉ですよね。子どもたちが、例えば将来日本語を話さなくなったとしても、この言葉だけは忘れて欲しくないと思います。
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coco
at 2012-09-17 00:43
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その後、症状はどうですかぁ~?
少し和らぎましたか?
人は人、自分は自分で行けばいいんですよ~なんて簡単には
いえません。全然次元は違うけれど東京生活が私にとって
似たような感じだったし。。見てみないフリをしたり、他人がどうであろう
とも、自分の価値観だけ大切にしていればいいんだって思いたい
けれどなかなかそうもいかない。。。。。
解決法は私、逃げ出す立場だからわからないけれどせめて梨の家内
では梨の木さんの価値観を大切にしてそういうのが尊重される家庭
にしてくださいね。多分もうなってると思うけれど。
少し和らぎましたか?
人は人、自分は自分で行けばいいんですよ~なんて簡単には
いえません。全然次元は違うけれど東京生活が私にとって
似たような感じだったし。。見てみないフリをしたり、他人がどうであろう
とも、自分の価値観だけ大切にしていればいいんだって思いたい
けれどなかなかそうもいかない。。。。。
解決法は私、逃げ出す立場だからわからないけれどせめて梨の家内
では梨の木さんの価値観を大切にしてそういうのが尊重される家庭
にしてくださいね。多分もうなってると思うけれど。
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kanafr at 2012-09-17 04:31
以前フランス語で書いたものをご主人様に見てもらうようにしたと書いていらっしゃいましたよね。
当然そこには常にje で始まる文章があり、曖昧さはない。
日本語って時にはその曖昧さにウンザリする事があるんですが、ほどよい曖昧さに心が傷つくことがない優しさがあります。でもフランス語には常にはっきりした関係をつきつけられる感じがします。
そういう事にも疲れてしまったんじゃないかなって思いましたけど..。
我が家には仏壇はありませんが亡くなった義父母、私の祖父母、両親の写真を置いて、毎朝お掃除してお水を変え夕飯時にご飯を炊けばご飯を、珍しいいただきものをしたらお供えして朝夕のご挨拶をする...というのは、ずっとやっています。
朝には家族が1日健康で無事でいられますように、夜には無事に過ごせた感謝をというのをすると、心が安らぎます。
夜の水替えやご飯をお供えは№2の仕事なので、ちょこっと挨拶しているみたいですけどね。
当然そこには常にje で始まる文章があり、曖昧さはない。
日本語って時にはその曖昧さにウンザリする事があるんですが、ほどよい曖昧さに心が傷つくことがない優しさがあります。でもフランス語には常にはっきりした関係をつきつけられる感じがします。
そういう事にも疲れてしまったんじゃないかなって思いましたけど..。
我が家には仏壇はありませんが亡くなった義父母、私の祖父母、両親の写真を置いて、毎朝お掃除してお水を変え夕飯時にご飯を炊けばご飯を、珍しいいただきものをしたらお供えして朝夕のご挨拶をする...というのは、ずっとやっています。
朝には家族が1日健康で無事でいられますように、夜には無事に過ごせた感謝をというのをすると、心が安らぎます。
夜の水替えやご飯をお供えは№2の仕事なので、ちょこっと挨拶しているみたいですけどね。
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poirier_AAA at 2012-09-17 16:18
>cocoさん、こんにちは。
夏休みが終わって日常が戻って来たら、忙しくてそんなことを考えている暇がなくなりました(笑)もう西洋アレルギーとか言ってる場合じゃなくて、万が一に備えて戦闘態勢を整えておかないと気の荒いパリっ子にいいように振り回されちゃいますから。
というのは半分冗談です。日本にも西洋ってたくさん入り込んでいるじゃないですか。だから、西洋式にも結構慣れているつもりでいたのだけれど、ちょっと長く住んで本当の西洋というものが見えてきたら、これまで考えていたものとは違い完全に自分とは異質なことが初めてわかって、右往左往している感じなんです。
梨の木家はですね、わたしはかなり情緒不安定だけれど、夫が落ち着いているのでほとんど常に同じテンションを保っていられるんですよ〜。自家用スタビライザーみたいな人なんです。
cocoさん、心配してくれてありがとう。
夏休みが終わって日常が戻って来たら、忙しくてそんなことを考えている暇がなくなりました(笑)もう西洋アレルギーとか言ってる場合じゃなくて、万が一に備えて戦闘態勢を整えておかないと気の荒いパリっ子にいいように振り回されちゃいますから。
というのは半分冗談です。日本にも西洋ってたくさん入り込んでいるじゃないですか。だから、西洋式にも結構慣れているつもりでいたのだけれど、ちょっと長く住んで本当の西洋というものが見えてきたら、これまで考えていたものとは違い完全に自分とは異質なことが初めてわかって、右往左往している感じなんです。
梨の木家はですね、わたしはかなり情緒不安定だけれど、夫が落ち着いているのでほとんど常に同じテンションを保っていられるんですよ〜。自家用スタビライザーみたいな人なんです。
cocoさん、心配してくれてありがとう。
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poirier_AAA at 2012-09-17 16:33
>kanafrさん、こんにちは。
いろいろ考えてみたんですけれど、書くことよりもむしろ読むこと(文章の中の「je」)に消化不良をおこしていたのかもしれません。je、jeと続けながら、その人の日常生活を日常生活のレヴェルで書いてある文章に、なんだかとても疲れてしまったんですよ。だから、夏休みは一人称じゃなくて三人称で書いてある文章を読もう!と思っていたくらいで(笑)おっしゃるとおり、日本語でも「わたしは」って書きますけれど、フランス語の「je」ははるかに強烈なんですよね。
あぁ、kanafrさんもそうしていらっしゃいましたか。no.2君が毎日お供えをするのを仕事にしているというのも感心しました。日本の文化の土台を、ちゃんとお子さんに受け継いでいらっしゃるんですね。わたしも見習いたい。そういう習慣を自分の生活の中に取り入れてみようと思います。
いろいろ考えてみたんですけれど、書くことよりもむしろ読むこと(文章の中の「je」)に消化不良をおこしていたのかもしれません。je、jeと続けながら、その人の日常生活を日常生活のレヴェルで書いてある文章に、なんだかとても疲れてしまったんですよ。だから、夏休みは一人称じゃなくて三人称で書いてある文章を読もう!と思っていたくらいで(笑)おっしゃるとおり、日本語でも「わたしは」って書きますけれど、フランス語の「je」ははるかに強烈なんですよね。
あぁ、kanafrさんもそうしていらっしゃいましたか。no.2君が毎日お供えをするのを仕事にしているというのも感心しました。日本の文化の土台を、ちゃんとお子さんに受け継いでいらっしゃるんですね。わたしも見習いたい。そういう習慣を自分の生活の中に取り入れてみようと思います。