2011年 08月 23日
安楽への全体主義と魂の重心 |
NHKの「こころの時代」で放送された「フクシマを歩いて 徐京植」を見た。
しばらくぶりにきちんとした話を聞いたと思った。きちんと考え、言葉を選んで自分の考えを伝えようとする人の姿に、ホッとする思いがした。
いろいろと考えさせられることの多い言葉が多かった中で、とりわけ記憶に残ったのがタイトルにある「安楽への全体主義」そして「魂の重心」。
全体主義というと時の権力によって強制されるもののように考えがちだけれど、現代日本の「安楽全体主義」はそうではない、と。権力や資本によって押し付けられた全体主義ではなく、一般の人がそれを可として参加するようになった全体主義である。便利な暮らし、安楽な生活のためなら多少の犠牲は仕方ないだろういう考え方に誰も反対しなくなった時代。
その安楽全体主義に対し、高度成長期の初期に既に警鐘を鳴らしていた人がいる。それが思想家の藤田省三だった。彼の著作に序文として添えられた「松に聞け」という文章からの抜粋が、番組中で紹介された。
此の土壇場の危機の時代においては、
犠牲への鎮魂歌は自らの耳に快適な歌としてではなく、
精魂込めた「他者の認識」として現れなければならない。
その認識としてのレクイエムのみが、
かろうじて蘇生への鍵を包蔵している、というべきであろう。
精魂込めた「他者への認識」と言う部分が、とりわけ重い。
「他者」という概念そのものが、日本の社会にはないんじゃないかと思うから。日本にあるのは何よりも共同体意識で、個人個人の存在は共同体に対しては劣位なのだ。共同体の一部分と化した自分と、共同体に馴染まない異物としての他者という概念は存在する。でも、共同体に頼らない1対1の「自分」「他者」という厳しい対峙に至ることは、一般的に稀なのだ。だから「他者」を認識する方法は、自分(と自分を含む共同体)と相手が馴染むかどうか、という一点に尽きる。
それは違うよね、というのがもう1つの言葉「魂の重心」に繋がる。
これは南相馬市に要介護者の妻と残って生活を続ける佐々木孝さんの言葉。
佐々木さんはまたこんなことも言われた。「lifeというのは命と人生という2つの意味がある。生物学的な命を大事にすると言うのはありがたいこと。でも人生を非常に軽く見すぎている」
チェルノブイリ原発に近い、汚染の残る村に住む人々の映像を見たことがある。どうして逃げないのだろうと思う気持ちと、同じ立場になったら自分もそうするかもしれないという気持ちの両方を持った。健康上の観点から見れば、絶対に移動するべきなのだ。それでもそうしないかもしれないと思うのは、自分の立場(年齢や家族構成、健康状態)によっては、そこから動かないで生活し続けることが幸せかもしれないからだ。
人が何を幸せと思うか、どういう状態を持って快適と思うか、基準は一人一人違う。自分の人生で何が大事か考えてそれを選びとることも、自分にしか出来ない。それが「魂の重心」ってことだろうと思う。行政は人の健康を考えることは出来るかもしれないけれど、それ以上のことは出来ない。人の魂の面倒までは見られるわけがない。だから自分で面倒を見る。行政も他人もそれ以上は個人の問題に口を出さない。そんな自由があっていいはずだと思う。自由というか、柔軟さ、風通しの良さ、かな。
最後に、徐京植氏の言葉から。
被災者のモラルの高さは賞賛してもしすぎることはない。問題は、それを日本という国家の物語に回収してしまおうとする力、回収されることに抵抗できないでもう一度全体主義の構成部分になってしまおうとする心性、それが問題だと言いたい。
しばらくぶりにきちんとした話を聞いたと思った。きちんと考え、言葉を選んで自分の考えを伝えようとする人の姿に、ホッとする思いがした。
いろいろと考えさせられることの多い言葉が多かった中で、とりわけ記憶に残ったのがタイトルにある「安楽への全体主義」そして「魂の重心」。
全体主義というと時の権力によって強制されるもののように考えがちだけれど、現代日本の「安楽全体主義」はそうではない、と。権力や資本によって押し付けられた全体主義ではなく、一般の人がそれを可として参加するようになった全体主義である。便利な暮らし、安楽な生活のためなら多少の犠牲は仕方ないだろういう考え方に誰も反対しなくなった時代。
その安楽全体主義に対し、高度成長期の初期に既に警鐘を鳴らしていた人がいる。それが思想家の藤田省三だった。彼の著作に序文として添えられた「松に聞け」という文章からの抜粋が、番組中で紹介された。
此の土壇場の危機の時代においては、
犠牲への鎮魂歌は自らの耳に快適な歌としてではなく、
精魂込めた「他者の認識」として現れなければならない。
その認識としてのレクイエムのみが、
かろうじて蘇生への鍵を包蔵している、というべきであろう。
精魂込めた「他者への認識」と言う部分が、とりわけ重い。
「他者」という概念そのものが、日本の社会にはないんじゃないかと思うから。日本にあるのは何よりも共同体意識で、個人個人の存在は共同体に対しては劣位なのだ。共同体の一部分と化した自分と、共同体に馴染まない異物としての他者という概念は存在する。でも、共同体に頼らない1対1の「自分」「他者」という厳しい対峙に至ることは、一般的に稀なのだ。だから「他者」を認識する方法は、自分(と自分を含む共同体)と相手が馴染むかどうか、という一点に尽きる。
それは違うよね、というのがもう1つの言葉「魂の重心」に繋がる。
これは南相馬市に要介護者の妻と残って生活を続ける佐々木孝さんの言葉。
佐々木さんはまたこんなことも言われた。「lifeというのは命と人生という2つの意味がある。生物学的な命を大事にすると言うのはありがたいこと。でも人生を非常に軽く見すぎている」
チェルノブイリ原発に近い、汚染の残る村に住む人々の映像を見たことがある。どうして逃げないのだろうと思う気持ちと、同じ立場になったら自分もそうするかもしれないという気持ちの両方を持った。健康上の観点から見れば、絶対に移動するべきなのだ。それでもそうしないかもしれないと思うのは、自分の立場(年齢や家族構成、健康状態)によっては、そこから動かないで生活し続けることが幸せかもしれないからだ。
人が何を幸せと思うか、どういう状態を持って快適と思うか、基準は一人一人違う。自分の人生で何が大事か考えてそれを選びとることも、自分にしか出来ない。それが「魂の重心」ってことだろうと思う。行政は人の健康を考えることは出来るかもしれないけれど、それ以上のことは出来ない。人の魂の面倒までは見られるわけがない。だから自分で面倒を見る。行政も他人もそれ以上は個人の問題に口を出さない。そんな自由があっていいはずだと思う。自由というか、柔軟さ、風通しの良さ、かな。
最後に、徐京植氏の言葉から。
被災者のモラルの高さは賞賛してもしすぎることはない。問題は、それを日本という国家の物語に回収してしまおうとする力、回収されることに抵抗できないでもう一度全体主義の構成部分になってしまおうとする心性、それが問題だと言いたい。
by poirier_AAA
| 2011-08-23 20:56
| 世情を考える
|
Comments(2)
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by
saheizi-inokori at 2011-08-24 09:54
補助線は想像力、でしょうか。
0
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by
poirier_AAA at 2011-08-24 17:37