2011年 05月 12日
石牟礼道子「苦海浄土」 |
3月末に予定していた一時帰国にあわせて、読みたかった本を大量にアマゾンで買って実家に送ってありました。旅行を中止してしまったので自分で取りにいくこともできず、やむを得ず実家の家族に頼んで送ってもらったら、いつもの倍以上の時間をかけて荷物が届きました。
その中に入っていたのがこの一冊です。大分前から読みたいと思っていた本で、今となってはどういう経緯でこの本を知るに至ったか記憶も定かではありません。でも、いまこのときに手に取ることになった巡り合わせの不思議を感じます。
副題に「わが水俣病」とついているように、この作品のテーマは水俣病です。作者は熊本県の天草生まれ。自分の故郷の海で起きた一連の出来事を、作者は患者を訪ねて歩き、話し、長い年月の間に起ったことをつぶさに見ながら記録しています。ノンフィクションかと思っていたらどうやらそうではない。ノンフィクションの部分と、作者が作り上げた部分が交錯して、一種神々しいまでの独特な光を放つ作品ができあがっています。ルポルタージュでもない完全な小説でもないこの作品を、作者が「自分自身に語り聞かせる、浄瑠璃のごときもの」と言っているのが印象的でした。
わたしはこの本と出会えてとても幸運だったと思っていますが、その思う理由は2つあります。1つ目は自分自身がほとんど知らなかった水俣病とその歴史をきちんと読むことができたこと。もう1つは石牟礼道子という凄い書き手を知ったこと、です。
水俣病のことを話すならば、この本を読んで感じたのは、日本はあの頃から何も変わっていないというやり切れなさでした。工場排水に含まれる有機水銀によって、海で魚を捕って暮らすたくさんの家族の生活が滅茶苦茶になります。原因はなかなかわからない。しかし、原因がどうやら工場排水にあるとわかってからも彼らは救われません。工場があるおかげで今の水俣があるのだ、工場を会社をこの地から無くしてはならない、そう考える水俣市民たちによって、被害者たちは無視され、あるいは共同体を裏切るものとして冷たく扱われるのです。
被害を認めようとしない会社、国。しぶしぶ認めた後も、主に金額の問題でなかなか被害者を認定しないやり方。できるだけコストを下げようとする被害者の切り捨て。その会社や工場がここにあるおかげで自分たちの生活が成り立っているのだから、少しぐらいの犠牲を払うのは当然のことだ(でも実際に払うのは自分以外の人にお願いしたい)と考える人たち。‥これだけ読んだら、一体昭和30年代のことなのか21世紀の現在日本で起きていることなのか区別がつきません。
怒りとも絶望ともつかぬ気持ちに捕われる一方で、わたしは被害者たちの口から発せられる言葉に惹き付けられます。作者が描写する海や患者たちの様子に、鮮烈な感動を覚えます。1つにはそれがこの地方の言葉で語られているから、方言のなんともいえない豊かさが感じられるからだと思いますが、おそらくは作者の言語感覚の鋭さに由るところが大きい。石牟礼道子さんは、これは作家というよりは詩人と呼ぶ方が似合う人なのじゃないだろうか?
印象的だった部分をいくつか。
ふっくりとあざやかな色をした内蔵のきれはしを解剖室にとどめて、彼の遺体を積み込んだ霊柩車が、うそ寒い水俣川の土手を走り去ると、同じくその川土手を、白い晴れ着をはたはたとさせて、笑いさざめく娘らの一団がこぼれるようにやって来た。それは、成人式帰りの娘たちの群であった。(第一章「椿の海」死旗)
この日はことにわたくしは自分が人間であることの嫌悪感に、耐えがたかった。釜鶴松のかなしげな山羊のような、魚のような瞳と流木じみた姿態と、決して往生できない魂魄は、この日から全部わたくしの中に移り住んだ。(第三章「ゆき女きき書」五月)
わけても魚どんがうつくしか。いそぎんちゃくは菊の花の満開のごたる。海松は海の中の崖のとっかかりに、枝振りのよかとの段々をつくっとる。ひじきは雪やなぎの花の枝のごとしとる。藻は竹の林のごたる。海の底の景色も陸の上とおんなじに、春も秋も夏も冬もあっとばい。うちゃ、きっと海の底には龍宮のあるとおもうとる。夢んごてうつくしかもね。海に飽くちゅうこた、決してなかりよった。(第三章「ゆき女きき書」五月)
あねさん、魚は天のくれらすもんでござす。天のくれらすもんを、ただで、わが要ると思うしことって、その日を暮らす。これより上の栄華のどこにゆけばあろうかい。(第四章「天の魚」海石)
この「苦海浄土」は三部作の第一部だと手に入れてから知りました。迷わず講談社文庫から出ている本作、つまり第一部だけを買ってしまったけれど、調べてみたら第二部「神々の村」、第三部「天の魚」が全部まとまった単行本が河出書房新社の池澤夏樹個人編集世界文学全集のうちの一冊としてでているのでした。悔しい!どうせだったらそっちを買うんだった。後悔は先に立ちません。この世界文学全集はわたしも前から注目していて何冊か持ってはいるのだけれど、惜しむらくはかなり場所をとるのです。もう少し活字を小さくして更に2段組みにして1冊のボリュームを抑えてくれていたら、真剣に全部揃えることを考えたのに。ものすごく意欲的で魅力的な企画だっただけに残念なのです。
ともあれ、この第一部だけでも十分に読む価値があると思います。決してきれいごとでは済まない現実なのに、不思議とタイトルにある「浄土」という言葉がしっくり馴染む被害者たちの在り方と言葉、そして目を反らさず誤摩化さずに現実を書いてみせる作者の力量に驚かされます。文字になって本という形態をとってはいるものの、これは作者の言うように浄瑠璃、何度も何度も繰り返して語られ、何度も何度も繰り返して聞かれるのにふさわしい話だと感じました。
その中に入っていたのがこの一冊です。大分前から読みたいと思っていた本で、今となってはどういう経緯でこの本を知るに至ったか記憶も定かではありません。でも、いまこのときに手に取ることになった巡り合わせの不思議を感じます。
副題に「わが水俣病」とついているように、この作品のテーマは水俣病です。作者は熊本県の天草生まれ。自分の故郷の海で起きた一連の出来事を、作者は患者を訪ねて歩き、話し、長い年月の間に起ったことをつぶさに見ながら記録しています。ノンフィクションかと思っていたらどうやらそうではない。ノンフィクションの部分と、作者が作り上げた部分が交錯して、一種神々しいまでの独特な光を放つ作品ができあがっています。ルポルタージュでもない完全な小説でもないこの作品を、作者が「自分自身に語り聞かせる、浄瑠璃のごときもの」と言っているのが印象的でした。
わたしはこの本と出会えてとても幸運だったと思っていますが、その思う理由は2つあります。1つ目は自分自身がほとんど知らなかった水俣病とその歴史をきちんと読むことができたこと。もう1つは石牟礼道子という凄い書き手を知ったこと、です。
水俣病のことを話すならば、この本を読んで感じたのは、日本はあの頃から何も変わっていないというやり切れなさでした。工場排水に含まれる有機水銀によって、海で魚を捕って暮らすたくさんの家族の生活が滅茶苦茶になります。原因はなかなかわからない。しかし、原因がどうやら工場排水にあるとわかってからも彼らは救われません。工場があるおかげで今の水俣があるのだ、工場を会社をこの地から無くしてはならない、そう考える水俣市民たちによって、被害者たちは無視され、あるいは共同体を裏切るものとして冷たく扱われるのです。
被害を認めようとしない会社、国。しぶしぶ認めた後も、主に金額の問題でなかなか被害者を認定しないやり方。できるだけコストを下げようとする被害者の切り捨て。その会社や工場がここにあるおかげで自分たちの生活が成り立っているのだから、少しぐらいの犠牲を払うのは当然のことだ(でも実際に払うのは自分以外の人にお願いしたい)と考える人たち。‥これだけ読んだら、一体昭和30年代のことなのか21世紀の現在日本で起きていることなのか区別がつきません。
怒りとも絶望ともつかぬ気持ちに捕われる一方で、わたしは被害者たちの口から発せられる言葉に惹き付けられます。作者が描写する海や患者たちの様子に、鮮烈な感動を覚えます。1つにはそれがこの地方の言葉で語られているから、方言のなんともいえない豊かさが感じられるからだと思いますが、おそらくは作者の言語感覚の鋭さに由るところが大きい。石牟礼道子さんは、これは作家というよりは詩人と呼ぶ方が似合う人なのじゃないだろうか?
印象的だった部分をいくつか。
ふっくりとあざやかな色をした内蔵のきれはしを解剖室にとどめて、彼の遺体を積み込んだ霊柩車が、うそ寒い水俣川の土手を走り去ると、同じくその川土手を、白い晴れ着をはたはたとさせて、笑いさざめく娘らの一団がこぼれるようにやって来た。それは、成人式帰りの娘たちの群であった。(第一章「椿の海」死旗)
この日はことにわたくしは自分が人間であることの嫌悪感に、耐えがたかった。釜鶴松のかなしげな山羊のような、魚のような瞳と流木じみた姿態と、決して往生できない魂魄は、この日から全部わたくしの中に移り住んだ。(第三章「ゆき女きき書」五月)
わけても魚どんがうつくしか。いそぎんちゃくは菊の花の満開のごたる。海松は海の中の崖のとっかかりに、枝振りのよかとの段々をつくっとる。ひじきは雪やなぎの花の枝のごとしとる。藻は竹の林のごたる。海の底の景色も陸の上とおんなじに、春も秋も夏も冬もあっとばい。うちゃ、きっと海の底には龍宮のあるとおもうとる。夢んごてうつくしかもね。海に飽くちゅうこた、決してなかりよった。(第三章「ゆき女きき書」五月)
あねさん、魚は天のくれらすもんでござす。天のくれらすもんを、ただで、わが要ると思うしことって、その日を暮らす。これより上の栄華のどこにゆけばあろうかい。(第四章「天の魚」海石)
この「苦海浄土」は三部作の第一部だと手に入れてから知りました。迷わず講談社文庫から出ている本作、つまり第一部だけを買ってしまったけれど、調べてみたら第二部「神々の村」、第三部「天の魚」が全部まとまった単行本が河出書房新社の池澤夏樹個人編集世界文学全集のうちの一冊としてでているのでした。悔しい!どうせだったらそっちを買うんだった。後悔は先に立ちません。この世界文学全集はわたしも前から注目していて何冊か持ってはいるのだけれど、惜しむらくはかなり場所をとるのです。もう少し活字を小さくして更に2段組みにして1冊のボリュームを抑えてくれていたら、真剣に全部揃えることを考えたのに。ものすごく意欲的で魅力的な企画だっただけに残念なのです。
ともあれ、この第一部だけでも十分に読む価値があると思います。決してきれいごとでは済まない現実なのに、不思議とタイトルにある「浄土」という言葉がしっくり馴染む被害者たちの在り方と言葉、そして目を反らさず誤摩化さずに現実を書いてみせる作者の力量に驚かされます。文字になって本という形態をとってはいるものの、これは作者の言うように浄瑠璃、何度も何度も繰り返して語られ、何度も何度も繰り返して聞かれるのにふさわしい話だと感じました。
by poirier_AAA
| 2011-05-12 20:33
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