2010年 10月 29日
Elle s'appelait Sarah |
直訳すると「彼女の名はサラ」、オリジナルの英語版のタイトルは「Sarah's key」、日本では「サラの鍵」というタイトルで出ている、タチアナ・ド・ロネ(Tatiana de Rosnay)の作品を読みました。
ちょうど今この作品を映画化したものがフランスで公開されていて、評判もなかなかいいのです。どうせなら原作を読んでから映画を見ようと思いまして本を手に取りましたが、これが予想を遥かに上回る良さで、今年読んだ本のベストのうちの一冊になるかもと思っています。
物語は2人の語り手の話が交互に出てくる形で進行します。
ひとりは1942年のパリに暮らす10歳の少女、サラ。
もうひとりは2002年のパリに暮らす45歳のアメリカ人女性、ジュリア。
サラが語るのは1942年7月にパリであったユダヤ人の一斉検挙のこと。La Rafle
(ラ・ラフル)と呼ばれるこの事件については、今年の3月16日のエントリーでも少し説明しました。連行されたユダヤ人たちが集められたのがエッフェル塔の近くにあった室内競輪場ヴェロドローム・ディヴェール(Vélodrome d'Hiver)、通称ヴェロ・ディヴ(Véle d'Hiv)です。
サラの家族は、胸に黄色の大きな星を縫い付けた服を着ていました。夜中、突然フランス警察がドアを叩き、その瞬間を境にサラとその家族は一切の人間的な生活を失います。
一方、60年後のパリに暮らすジュリアは、フランス人の夫ベルトランとゾエという11歳になる娘の3人家族。ジャーナリストで、アメリカのフランス情報誌に記事を書いています。ヴェロ・ディヴのラフルについて記事を書くようにと編集長に指示され、全く何も知らないところから取材を始めた彼女は、次第に夢中になって事実を調べて行くうちに、長い間封印されてきた過去に突き当たります。
始めは2人の語りが交互に繰り返されますが、あるところで2つの話が出会い、その後はずっとジュリアの語りに統一されます。サラの視点は消えて、かわりにサラの過去をずっしりと背負ってしまったジュリアの話になるのです。
この作品、確かにホロコーストを描いてもいるわけですが、むしろ人がそのような恐ろしい過去とどうつきあうのかを描いている点で読み応えがあったと思います。
決して忘れられない恐ろしい体験をしてしまった人。それを傍観していた人。自分の家族に語られなかった暗い過去があると知ってしまった家族。暗い過去は完全に封印してしまうことが幸せなのか、それともどんな過去であっても知らないよりも知っていた方がいいのか。過去を捨てて生きられるのか。過去を知ってどうなるのか。
しばらく前、強制収容所に収容されながらも生き延びて今はフランス政界の重鎮になっているシモーヌ・ヴェイユの自伝「Une vie」を読んだとき、彼女が結婚した当時のことに触れながら「夫も夫の家族もわたしにとってはかけがえのない大事な存在だけれど、彼らは収容所でのわたしの体験を決して聞きたがらない」と書いた部分がありました。わたしはこれを読んだとき、自分の過去を分かち合えない人たちと本当に心を許してつきあえるのだろうかと強く疑問を感じたのです。
その疑問に対するひとつの答えが、このサラの物語だと思いました。そして、個人的にはこの著者の考え方にかなり共感を覚えたのです。
それだけではありません。パリに住む外国人という立場でも共感を覚えるところが多かったし、作品中に出てくる通りの名前や場所が非常に近しい存在なだけに事実が重くのしかかってくる感じがしました。サラがまだ幼い弟のことを考える下りや収容所で幼い子どもたちが親から引き離される下りなどは、自分の子どものことを考えないではいられず、もう胸が痛くて苦しくてたまりませんでした。
欧州で、まだまだ20世紀の戦争の記憶がしっかりと残っていることは、折に触れて感じます。最後の戦争から60年以上が経過して、ようやく暗い記憶を語れるところまで来た。その結果としてあの時代をテーマにした作品がたくさん出て来て、それを若者たちも読んでいる。そうやって記憶を語り継いでいるのが欧州だと思います。戦後60年経ったのは日本も同じだけれど、日本はどうなんだろう?なんだかずっと遠い過去のことになってしまっている気がします。
わたしはフランス語で読みましたが、かなり読み易くて快調に読み進めることができました。中級レヴェルのフランス語多読にもぴったりなのではと思います。
ちょうど今この作品を映画化したものがフランスで公開されていて、評判もなかなかいいのです。どうせなら原作を読んでから映画を見ようと思いまして本を手に取りましたが、これが予想を遥かに上回る良さで、今年読んだ本のベストのうちの一冊になるかもと思っています。
物語は2人の語り手の話が交互に出てくる形で進行します。
ひとりは1942年のパリに暮らす10歳の少女、サラ。
もうひとりは2002年のパリに暮らす45歳のアメリカ人女性、ジュリア。
サラが語るのは1942年7月にパリであったユダヤ人の一斉検挙のこと。La Rafle
(ラ・ラフル)と呼ばれるこの事件については、今年の3月16日のエントリーでも少し説明しました。連行されたユダヤ人たちが集められたのがエッフェル塔の近くにあった室内競輪場ヴェロドローム・ディヴェール(Vélodrome d'Hiver)、通称ヴェロ・ディヴ(Véle d'Hiv)です。
サラの家族は、胸に黄色の大きな星を縫い付けた服を着ていました。夜中、突然フランス警察がドアを叩き、その瞬間を境にサラとその家族は一切の人間的な生活を失います。
一方、60年後のパリに暮らすジュリアは、フランス人の夫ベルトランとゾエという11歳になる娘の3人家族。ジャーナリストで、アメリカのフランス情報誌に記事を書いています。ヴェロ・ディヴのラフルについて記事を書くようにと編集長に指示され、全く何も知らないところから取材を始めた彼女は、次第に夢中になって事実を調べて行くうちに、長い間封印されてきた過去に突き当たります。
始めは2人の語りが交互に繰り返されますが、あるところで2つの話が出会い、その後はずっとジュリアの語りに統一されます。サラの視点は消えて、かわりにサラの過去をずっしりと背負ってしまったジュリアの話になるのです。
この作品、確かにホロコーストを描いてもいるわけですが、むしろ人がそのような恐ろしい過去とどうつきあうのかを描いている点で読み応えがあったと思います。
決して忘れられない恐ろしい体験をしてしまった人。それを傍観していた人。自分の家族に語られなかった暗い過去があると知ってしまった家族。暗い過去は完全に封印してしまうことが幸せなのか、それともどんな過去であっても知らないよりも知っていた方がいいのか。過去を捨てて生きられるのか。過去を知ってどうなるのか。
しばらく前、強制収容所に収容されながらも生き延びて今はフランス政界の重鎮になっているシモーヌ・ヴェイユの自伝「Une vie」を読んだとき、彼女が結婚した当時のことに触れながら「夫も夫の家族もわたしにとってはかけがえのない大事な存在だけれど、彼らは収容所でのわたしの体験を決して聞きたがらない」と書いた部分がありました。わたしはこれを読んだとき、自分の過去を分かち合えない人たちと本当に心を許してつきあえるのだろうかと強く疑問を感じたのです。
その疑問に対するひとつの答えが、このサラの物語だと思いました。そして、個人的にはこの著者の考え方にかなり共感を覚えたのです。
それだけではありません。パリに住む外国人という立場でも共感を覚えるところが多かったし、作品中に出てくる通りの名前や場所が非常に近しい存在なだけに事実が重くのしかかってくる感じがしました。サラがまだ幼い弟のことを考える下りや収容所で幼い子どもたちが親から引き離される下りなどは、自分の子どものことを考えないではいられず、もう胸が痛くて苦しくてたまりませんでした。
欧州で、まだまだ20世紀の戦争の記憶がしっかりと残っていることは、折に触れて感じます。最後の戦争から60年以上が経過して、ようやく暗い記憶を語れるところまで来た。その結果としてあの時代をテーマにした作品がたくさん出て来て、それを若者たちも読んでいる。そうやって記憶を語り継いでいるのが欧州だと思います。戦後60年経ったのは日本も同じだけれど、日本はどうなんだろう?なんだかずっと遠い過去のことになってしまっている気がします。
わたしはフランス語で読みましたが、かなり読み易くて快調に読み進めることができました。中級レヴェルのフランス語多読にもぴったりなのではと思います。
by poirier_AAA
| 2010-10-29 18:54
| フランス語を読む
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