2009年 06月 12日
Desobeir - われ、服従せず |
テレビドラマを見ていて、アリスティド·ドゥ·ソーザ·メンデスという人のことを初めて知った。
ナチスドイツの迫害の時代、多くの人々の逃亡を助けたポルトガルの外交官である。ルモンド紙の番組紹介が概略をうまくまとめている。
(以下、梨の木による粗訳)
最大限の尊敬に値する行為であっても、それが必ずしも歴史に記憶されているとは限らない。在ボルドーのポルトガル領事であったアリスティド·ドゥ·ソーザ·メンデス(1885-1954)は、そんな苦い経験をした。ホロコーストの時期にただ1人で行われた最大規模の救出劇であったが、彼のその栄誉が称えられたのは死後何年も経てからであった。
1940年、ポーランド侵入を果たしたドイツ軍は西に向けて侵攻を続けていた。各地よりの避難民が南フランスに続々と集まっていた。願いはただ一つ、この地を脱出することであった。
リスボン(ポルトガル政府)からは望ましくない人々、特に国籍を剥奪されたユダヤ人のポルトガル入国を禁止する旨の通知があった。熱心なカトリック教徒であったアリスティド·ドゥ·ソーザ·メンデスはしかし決心することができなかった。人の定めた法に従うべきか、それとも神のそれに拠るべきか?
«人種もない、宗教もない、国籍もない、あるのはただ人間という存在だけだ» これが答えであり、その後の彼の驚くべき非服従の行動の原動力となった。当面中立の立場であった故に逃亡者にとってある程度の安全が期待できる場所ポルトガル。そのポルトガルへの入国ビザを求めるすべての人に、この時からビザが(無料で)支給されるようになった。
領事館は一杯になった。初日、257通のビザが支給された。足りなかった。数週間のうちに支給されたビザの数は30,000通に達した。そのうち10,000通がユダヤ人を救った。アリスティド·ドゥ·ソーザ·メンデスの行為はこれだけに止まらない。彼は逃亡者達のスペイン入国を助けるため、フランコ政権からの(避難民の入国を禁止する)通達が届いていない辺境の国境に赴き税関を説得する。
しかしながら、ポルトガル政府(サラザール政権)から帰国を命じられた後、外交官としての特権を始めとするすべての権利を取り上げられ、アリスティド·ドゥ·ソーザ·メンデスは貧窮の末に世を去る。1966年イスラエルのヤド・ヴァシェム記念館より「正義の異邦人」として顕彰される。1995年、ポルトガルは正式にアリスティド·ドゥ·ソーザ·メンデスの名誉を回復する。(訳、以上)
ビザが30,000通という数もすごいけれど、驚くべきはこれが1ヶ月にも満たない期間で行われたことだ。Wikipediaの詳細な説明(http://en.wikipedia.org/wiki/Aristides_de_Sousa_Mendes)によると1940年6月17日に自国政府の指示に従わないことを決意しビザの支給を始め、ポルトガルに帰国したのが7月8日とのこと。ドラマの中では、協力者とともに寝る暇を惜しんでビザ支給作業をする姿が壮絶だった。
信念を貫くというのは、簡単に格好良いと憧れてできるようなことではないと怖ささえ感じながら思った。時代が、国が、大衆がある一方を向いているときに(ある狂気にとらわれている時に)、自分1人逆を向いて堂々としていられるか?「勇気ある行動」なんて言葉が、どれだけ陳腐に空虚に響くことだろう!
France 2 " Desobeir, Aristides de Sousa Mendes"
(le role titre: Bernard Le Coq)
ナチスドイツの迫害の時代、多くの人々の逃亡を助けたポルトガルの外交官である。ルモンド紙の番組紹介が概略をうまくまとめている。
(以下、梨の木による粗訳)
最大限の尊敬に値する行為であっても、それが必ずしも歴史に記憶されているとは限らない。在ボルドーのポルトガル領事であったアリスティド·ドゥ·ソーザ·メンデス(1885-1954)は、そんな苦い経験をした。ホロコーストの時期にただ1人で行われた最大規模の救出劇であったが、彼のその栄誉が称えられたのは死後何年も経てからであった。
1940年、ポーランド侵入を果たしたドイツ軍は西に向けて侵攻を続けていた。各地よりの避難民が南フランスに続々と集まっていた。願いはただ一つ、この地を脱出することであった。
リスボン(ポルトガル政府)からは望ましくない人々、特に国籍を剥奪されたユダヤ人のポルトガル入国を禁止する旨の通知があった。熱心なカトリック教徒であったアリスティド·ドゥ·ソーザ·メンデスはしかし決心することができなかった。人の定めた法に従うべきか、それとも神のそれに拠るべきか?
«人種もない、宗教もない、国籍もない、あるのはただ人間という存在だけだ» これが答えであり、その後の彼の驚くべき非服従の行動の原動力となった。当面中立の立場であった故に逃亡者にとってある程度の安全が期待できる場所ポルトガル。そのポルトガルへの入国ビザを求めるすべての人に、この時からビザが(無料で)支給されるようになった。
領事館は一杯になった。初日、257通のビザが支給された。足りなかった。数週間のうちに支給されたビザの数は30,000通に達した。そのうち10,000通がユダヤ人を救った。アリスティド·ドゥ·ソーザ·メンデスの行為はこれだけに止まらない。彼は逃亡者達のスペイン入国を助けるため、フランコ政権からの(避難民の入国を禁止する)通達が届いていない辺境の国境に赴き税関を説得する。
しかしながら、ポルトガル政府(サラザール政権)から帰国を命じられた後、外交官としての特権を始めとするすべての権利を取り上げられ、アリスティド·ドゥ·ソーザ·メンデスは貧窮の末に世を去る。1966年イスラエルのヤド・ヴァシェム記念館より「正義の異邦人」として顕彰される。1995年、ポルトガルは正式にアリスティド·ドゥ·ソーザ·メンデスの名誉を回復する。(訳、以上)
ビザが30,000通という数もすごいけれど、驚くべきはこれが1ヶ月にも満たない期間で行われたことだ。Wikipediaの詳細な説明(http://en.wikipedia.org/wiki/Aristides_de_Sousa_Mendes)によると1940年6月17日に自国政府の指示に従わないことを決意しビザの支給を始め、ポルトガルに帰国したのが7月8日とのこと。ドラマの中では、協力者とともに寝る暇を惜しんでビザ支給作業をする姿が壮絶だった。
信念を貫くというのは、簡単に格好良いと憧れてできるようなことではないと怖ささえ感じながら思った。時代が、国が、大衆がある一方を向いているときに(ある狂気にとらわれている時に)、自分1人逆を向いて堂々としていられるか?「勇気ある行動」なんて言葉が、どれだけ陳腐に空虚に響くことだろう!
France 2 " Desobeir, Aristides de Sousa Mendes"
(le role titre: Bernard Le Coq)
by poirier_AAA
| 2009-06-12 23:37
| 観る・鑑賞する
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